三重県の鳥羽に向かうまでの一時間余り、まるでギリシャの海を思わせるような白く高い空と、青く深い海を眺めていると、湾口の間に異様な島が現れた。時刻表にも載っていないその島を左手に見ながら、私はこの島が一体何なのか知ろうとした。島は急峻な斜面に覆われて高い山がそびえている。住んでいる人がいるのだろうか、あるいは交通はあるのだろうか、などと考えた。まだ携帯電話などなく、実家に戻って日本地図などを開いて調べると、その島は「神島」という鳥羽市に所属する島であることがわかった。
「神島」といういかにも神秘的な名前にも興味は深まるが、その島には数百人しか住民はおらず、おおよそ観光などとは無縁で、おそらくは釣り好きの人が訪れるくらいだろうと想像できた。私はフェリーの中から見た独特な光景から、何かスピリチュアルなものを感じたが、その「神島」こそ三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となったことを後で知った。三島もまた、この島の異様な光景から着想を得てこの小説を書いたのだろう。
小説「潮騒」は映画化され、山口百恵と三浦友和が共演したことで話題を呼んだ。以前NHK-BSで放映された映画の裏話を紹介した番組では、この神島で行われたロケの話が印象深い。そしてこの「潮騒」こそ、古代ギリシアのロンゴスの小説「ダフニスとクロエ」のコピーである。私は大学生の頃、この「ダフニスとクロエ」の話を遠藤周作のエッセイで知り、岩波文庫で読んだ。エーゲ海に浮かぶ離島の牧歌的な情景を舞台に、少年と少女に芽生えた純真な恋とその成就が抒情豊かに描かれている。
絶海の孤島を舞台にした古代の純愛物語は、ディアギレフが率いるロシアのバレエ団のために、ラヴェルが管弦楽曲に仕立て上げた。その後2つの組曲にも再編成されたこのバレエ音楽は、ラヴェルの数ある作品のかなでもひときわ大規模であり、合唱を加えた交響曲のような作品である。特に第2組曲は、いまでも盛んに演奏され人気も高い。
物語は3つの部分から成り立っている。
第1場は午後の牧草地。序奏に続いて宗教儀式が始まる。静かで幻想的な中から立ち上ってくる木管楽器が印象的で、何か妖艶な雰囲気を私は感じる。合唱が用いられる場合はさらに効果的だが、こちらはより健康的で明るい感じがする。二人の主人公、ダフニスとクロエは登場している。そこへダフニスの恋敵であるドルコンが現れグロテスクに踊るが、続いてダフニスは優雅に踊り勝者となる。
続いて現れるのは、年増女のリュセイオンである。彼女はダフニスを誘惑するが、海賊なども現れて結構テンポが切迫する。しかしやがて夜想曲が始まり、夜の静寂に風が吹くような中で神秘的な第1部が終わる。音楽だけを聞いていると、静かで長い第1場である。
合唱がアカペラを歌い、間奏曲に入ると第2場である。
海賊たちの野営地では、やがて戦いが始まる。音楽が大きくなり、初めて賑やかな展開に。海賊に捕まったクロエは助けてくれと哀願。すると神の影が現れて大地が割れ、海賊が退散する。このあたりはストーリーを頭に入れて聞かないとよくわからなくなってしまい、ちょっと辛抱がいる。
結局、聞き所は15分あまりの第3場(つまり「第2組曲」)に集中してくる。夜明け前の牧草地。この夜明けの音楽が醸し出す明るい解放感は見事というしかない。合唱も交じってフランス音楽の真骨頂のような雰囲気。ようやく結ばれたダフニスとクロエ。音楽は無言劇を経て「全員の踊り」に入り、熱狂的な大団円を迎える。
モントリオール交響楽団の音楽監督に就任し、フランス以上にフランス的と称されたその一連の演奏は、優秀な録音技術を誇るデッカによって数多リリースされ、完成度の高さに毎回驚かされた。80年代に入ったころから20年以上続く快進撃の最初の録音が、たしかこの「ダフニスとクロエ」(全曲)だった。この記念すべきディスクは今もって、同曲の最高の演奏に数えられている。
私が学生時代に自腹で購入した記念すべき5枚目のCDは、デュトワによるラヴェルの「管弦楽曲集」だったが、そこには第2組曲のみが収録されていた。この演奏は、全曲版からの抜粋だったと思う。しかしデュトワはこだわって全曲を収録し、大成功を収めた。このディスクには合唱が入っていることからも、そのこだわりが見て取れる。
デジタル録音の技術が登場して40年以上が経過したが、今聞き直してもその新鮮な演奏にはまったく遜色がないばかりか、細部にまでクリアな音色と、確固とした演奏のリズム感など、聞きていて嬉しくなる。デュトワの自然で軽やかでありながらエレガントな響きは、どこか厚ぼったかったフランス音楽の演奏を淡くモダンな色彩で塗りなおし、一世を風靡した。
ラヴェル「ダフニスとクロエ」全曲版
11.夜明け
12.無言劇
13.全員の踊り
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