2025年2月24日月曜日

NHK交響楽団第2033回定期公演(2025年2月21日NHKホール、下野竜也指揮)

これまで私は、N響の聴衆というのは高齢者が多く、どこか醒めていると感じていた。例えば杖をついていても歩きにくい人をよく見かけたし、そういう人が休憩時間に並ぶトイレはやたら時間がかかって混み合い時間が足りない(そのせいか、いつの間にか15分の休憩時間が20分に延長された)。補聴器への配慮を促すアナウンスにも最初は驚いたものだった。

それがいつからか変わり、今ではオーケストラが出てくるだけで拍手が起こる。補聴器のアナウンスは聞かなくなった。そして今回出かけた第2033回定期公演では、何と若い人や外国人が非常に多かった。とうとう世代が変わったのだろうか。2月はC定期のみ出演者は全員日本人だし、スッペやオッフェンバックの小品を集めたコンサートは、コスト削減を目的とした安易な企画として、お堅いN響の定期会員には人気なく、席はガラガラだと思っていた。ところがそうではなかったのだ。私の購入した2階席などはほぼ埋まっているではないか。

いわゆるポピュラー・コンサート、あるいは名曲コンサートの類であれば、これも頷ける。しかし本日は定期公演。3月には欧州公演も控えているようで、しばらく定期公演はお休み。けれども私は、定期公演としての演奏される名曲プログラムを昔から好んでおり、軽い曲を軽く演奏するのではなく、一球入魂の力で演奏することに密かな期待をしていた。同じことを思っている聴衆も多かった。かつてカラヤンのビデオ作品などがそれを彷彿とさせて、私のお気に入りだった。それこそロッシーニの序曲やシュトラウスのワルツを、まるでシンフォニーにようにゴージャスに演奏するのだから。

2日同じプログラムで開催されるN響定期の初日というのは、FM中継に加えてテレビ収録されることになっている。ところがこの日は通常のカメラに加え、マイクロフォンの設定がいつもより多い。これは何を意味するのかわからないが、もしかするとこの演奏は、何か特別な録音でもなされるのかも知れない。まあそんなことを考えながら、開演を待った。

最初の曲がスッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲だったことを忘れていた。あの勇壮なトランペットのファンファーレが聞こえてきたとき、N響の管楽アンサンブルの見事さに圧倒された。いつのまにか、金管楽器のフォルティシモの醜さ(それは我が国のオーケストラの欠点だった)が消えてなくなり、磨かれて美しく聞こえるのだ。これは3番目の曲、同じスッペの喜歌劇「詩人と農夫」でも同様だった。

ただ「詩人と農夫」では、そのあとチェロの独奏が朗々と会場にこだまし、さらにハープが加わってうっとりするようなメロディーに酔いしれる。そうかと思うと濁りのない弦楽器のユニゾン、金管のアンサンブルと聞き所に事欠かない。

前半の2曲目にはヴァイオリニストの三浦文彰を迎えての、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番が演奏された。この曲は有名だが、私は会場で聞くのは初めてである。まるでヴィオラのような低音で始まる冒頭から、こなれた手つきで演奏するソロに見入った。

演奏は後半ほどこなれて上手く、もしかすると明日の2日目はもっと緊張感が取れていい感じになるのではと思われた。最後の曲、オッフェンバックの「パリの喜び」(ロザンダール編)は、言わずと知れた楽しい曲だが、これは40分近く続くという贅沢なもの。N響のようなプロ中のプロが奏でる「カンカン」が、そして夢のように美しい「舟歌」が、まるで交響詩のように響く。オーケストラの楽しさをこれほどにまで体験できる贅沢な時間は、なかなかないものだ。指揮の下野竜也も終始楽しそうで、表情は客席からはわからないが、これはテレビ放映時の楽しみである。

2025年2月18日火曜日

ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73(ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団)

今日は東海道新幹線に乗っている。名古屋方面へ出かけるのは今年に入って3回目である。耳には、ブラームスの第2交響曲。

この曲は、オーストリアの風光明媚な観光地ヴェルター湖畔にあるペルチャッハにて、交響曲第1番の完成からわずか1年のうちに作曲された。第1番の完成に21年もの歳月を要したのに比べると、圧倒的な速さである。

私はウィーン以外のオーストラリアへ出かけたことはなく、その自然の美しさを知らない。毎年ニューイヤーコンサートで見る各地の古城や田園風景は、それはまるで絵画のように美しく、このような環境の中に身を置いてこそ、豊かな音楽性が開花し名曲が生まれるのだろうと想像している。実際作曲家自身も、自然が創作意欲を掻き立てることを手紙などに記している。ブラームスも例外ではない。

自然をそのまま音楽にしたような牧歌的で明るい曲想が、44歳のブラームスを通して第2作目の交響曲となり、100年以上の歳月を経て我々のもとにある。50年前の演奏でも、録音されていれば再生が可能だし、楽譜によって演奏家が同じ音楽を再現するのをコンサートで体験することもできる。「ブラームスの田園交響曲」と言われるこの第2番に、私はこれまで幾度となく接してきた。ある作家が死の直前、ここの第1楽章の主題をレコードでかけるようにと言い、それを再生機で聞いた彼は静かに「そうだ、これでいいのだ」と辞世の言葉を残したそうである。

私もクラシック音楽を聴き始めた中学生時代、たった4曲しかないブラームスの交響曲を第1番から順に聞いていった。いや、第1番の次はいきなり第4番で、第3番が最後だった。他の家庭はどうか知らないが、少なくとも我が家には第1番のレコードが10枚近くあり、次いで多いのが第4番だった。第2番と第3番は1枚もなかった。知り合いの家に遊びに行った折、そこにあった第2番のレコードをはじめて聞くことになった。演奏はシュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィル。そのときは、なんだか大人しく地味な曲だという印象しか残らなかった。

中学校3年生になって、ある寒い土曜日の朝、寝床でFM放送を聞いているとこの曲が流れた。当時は土曜日でも通学する必要があった。暖かい布団の中で、そわそわしながら耳を傾けていた。すると第4楽章になってアレグロの音楽が勢いよく流れてきた。最後はこんな風になるのだと思った。コーダでは思いっきりクライマックスを築き、気持ちよく終わる。朝からこのような曲を聴き爽快な気分で学校へ出かけたが、私の頭からはこの曲が、一日中鳴り響いて途絶えることがなかった。

この時の演奏は、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルのものだったと記憶している。ここで取り上げようかとも思ったが、第1番でベームを推したので、それとは異なる演奏にした。それはジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮したものである。古い60年代の録音であるにもかかわらず、今もってこの演奏を超える印象を残すものに、私は出会っていない。同様のことを思う人も多いのか、この古い録音は何度もリマスターされ、未だにリリースされ続けている。

第2番の聴きどころは多い。まず、第1楽章の冒頭の旋律。弦楽器が出てすぐにホルンから木管へとメロディーが受け継がれていく。やがて弦楽器がひらひらと降りてきて風が滞ったかと思うと、おもむろにそよ風が頬をそっと撫でるように現れる。ここは第1の聞き所で、春風のように明るく朗らかにやるか(バーンシュタイン)、テンポを揺らして想い深く通り過ぎるか(モントゥー)、スコットランド民謡のように素朴に演奏するか(バルビローリ)。この主旋律は、そのあと繰り返しの際にも出てくるが、再現されるときにいかにハッとさせるかを私はいつも注目する。おそらくそういう演奏に過去出会ったからだろう。

ここは特に印象的でなければならない。ジュリーニのように遅すぎると緊張感が続かず、ショルティのようにせっかちというのも、私の感性に合わない。セルの中庸の美学は、ここでも大変好ましい。

第2楽章は、この曲の演奏の善し悪しを左右するものだ。ただこのことは、何度もこの曲を聴いてきて次第にわかってくるものである。クラシック音楽の魅力を知るには時間が掛かるが、その楽しみは長く続く。セルの演奏は、骨格がしっかりとして居ながら抒情的な面も豊かで、表情付けにメリハリが効いている。中音域のメロディーラインが一定の幅の中で上昇・下降を繰り返しながら進むが、決して明るく晴れたりはしない。

このあたり、シューマンの音楽もそうで、いわばドイツ・ロマン派の伝統という気もするのだが、ブルックナーやワーグナーのように(ブラームスと対立関係にあった)、南ドイツ風の時折日差しが差し込むというものではなく、あくまで曇り。このような閉塞的な気象と気性から、ブラームスの難しさがあるように思う。難しさと書いたが、これは好みの難しさ。つまり心から好きになれないけど、だからといってそんなに嫌いでもないのである。

第3章は素朴でほのかに明るく、3拍子のリズムはここの楽章を舞曲とする交響曲の伝統に回帰するようなところがあって好ましい。一方、第4楽章の爆発するようなリズムとメロディーをどう解釈するのがいいのだろうか?この曲を通して自然がひとつのモチーフだとすれば、ここはやはり春から初夏にかけての、浮き立つような喜びということではいだろうか?セルの演奏で聞いていると、民族舞曲がベースとなっているかのように聞こえてくる。ただそれでも南欧風の快晴ではない。

この曲は有名で人気がある割には、演奏の良し悪しや好みというものがよくわからないのが事実。同じことがベートーヴェンの「田園」にも言える。曲に問題があるかのようだと最初は思っていたが、セルの演奏に出会ってから、その考えは間違っていたことに気づいた。

新幹線の車窓風景に流れる冬の静岡の風景は、この曲のこの演奏によくマッチしている。

2025年2月14日金曜日

ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68(カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

午前8時30分新宿発の列車に乗って、甲府方面へ向かっている。ここ1週間ほど日本列島はずっぽりと寒気に覆われ、それこそ北海道から鹿児島に至るまで平地を含めて雪の陽気であるにもかかわらず、関東平野は連日の快晴続きである。この時期の悪天候は、特に受験生とって大変だと思うが、我が街道歩きもなかなか工夫を要する事態となる。東海道は名古屋での大雪のため行くことがためらわれ、中山道も佐久平を過ぎると、冬季の交通機関がめっきり乏しくなくなる。

関東平野の主要な街道はほぼ歩き終えたので、残るは甲州街道のみである。その大半を占める山梨県は、どういうわけか晴天が続いている。それで次なる区間、甲府柳町から韮崎の間を、飛び石連休を利用して歩くことにした。富士山方面へと向かう外国人の観光客でごった返す新宿駅を後にして、甲府・河口湖行き特急「かいじ」は、立川までまっすぐ西へと延びる中央本線をゆっくりと走る。

私はかつてこの沿線に10年ほど住んでいたので、沿線風景が懐かしい。雪化粧した多摩連山がビルの隙間から顔を出すのを眺めながら、ブラームスの交響曲第1番を聴いている。まだ三鷹だというのに、もう第1楽章が終わってしまった。それほど中央線を走る特急は遅い。私の一番のお気に入りにして、この曲の魅力を最初に教えてくれたのが、今聞いているカール・ベーム指揮ベルリン・フィルによる演奏(59年)である。この時ベームはすでに65歳だった。

ステレオ初期の古い録音にもかかわらず音質は良い。第2楽章に入って静謐な森の中にこだまするような素朴なメロディーが、この列車のスピードに合っている。ベームにはウィーン・フィルと録音した全集もあるが。この第1番だけはベルリン・フィルとのステレオ録音があって(他は確かモノラル)、実のところこちらの方が音楽の骨格がかっちりとしていい。今日のような、寒く引き締まる思いがする天候に合っているな、などといい加減なことを思う。

ブラームスは北ドイツの港町ハンブルグの出身で、そこの陽射しは夏でも弱く、寒々として曇天が続く。我が国に当てはめれば、冬の日本海側を思えばよいだろうか。低く垂れこめた雪の合間からたまに日が差して、明るくなったかと思うと雪が降り出すというような感じである。音楽家の父を持ち、自身もピアノの才能に恵まれた29歳の青年は、ドイツの地方都市からウィーンに赴く。ほとんど同じ境遇だったベートーヴェンを強く意識するのは、当然のことだったに違いない。

そのブラームスが異常ともいえる21年の歳月をかけて、満を持して最初の交響曲を作曲したことは常に言われることである。ハンス・フォン・ビューローはこの作品を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼んだとも。つまりはそれだけの完成度、充実度を誇り、常に意識の中にあったドイツ音楽の伝統を見事に継承したことは事実である。

だからこの作品は、ベートーヴェンの焼き直しなどでは決してなく、ロマン派後期に属しながら古典的様式を研究し尽くし、新たな交響曲としての金字塔を打ち立てた。このことについてはあまりに多くのことが語られているので、私はこれまでブラームスの作品について、このブログで触れるのをためらってきたほどだ。

最初の停車駅立川で、もう第3楽章となった。一般に第3楽章は3拍子で書かれることが多く、特にベートーヴェンは「スケルツォ」をより劇的に進化させた感が強いのだが、ブラームスはこの楽章を3拍子で書いていない。これはブラームスの独自性を示す例で、この曲が決してベートーヴェンの模倣ではないことがよくわかる。

一方、ベートーヴェンの「第九」との親和性が示されるのが第4楽章のメロディーである。音楽を聞き始めた頃はここにばかり針を下ろしたので、その手前の弦の静かなピチカート部分でプチプチとノイズが発生することになってしまい、レコードに傷をつけたことを後悔したものだ。このメロディーは、第1楽章から聞いていくととても印象的である。私の全く個人的な感想だが、第4楽章は前半がロマン的で後半になると古典的。こういう音楽が昔からあったね、と回顧するような気持ちである。この音楽はベートーヴェンの交響曲第5番の、続けて演奏される第3楽章からのパッセージに似ているとも思う(いやハ短調からハ長調へと向かう「苦悩から歓喜へ」の流れを考えると、これはやはり同類とみなすべきだろう)。

気合を入れて演奏されるので、次第に熱を帯びてそれなりの名演になるのは、ベートーヴェン同様曲自体が引き締まって無駄がなく、隅々にまで考え抜かれた結果だろう。そしt特筆すべきは、様々なアンサンブルに加えて、ソロのシーンの連続でもあることだ。オーケストラの力量が全編に渡って要求され、聴きどころには事欠かない。

第1楽章冒頭のティンパニ連打から、それは明らかである。第2楽章は何といってもバイオリンの、高らかに舞い上がるようなソロ。数々の印象的なメロディを吹く第3楽章は、菅のオンパレード。まずクラリネット、そしてホルンとフルートが高らかに弾きならされるとき、聞き手は固唾を飲んで聞き入る。第4楽章後半の、一気になだれ込むコーダまでの凝縮された音楽は、その粘着的性質もあって聞き終えてもいつまでも頭に残る。

高尾を過ぎる頃には、何と曲が終わってしまったではないか。今はこの文章を書きながら、同じベームの指揮する「悲劇的序曲」を聞いている。この曲ではウィーン・フィルが演奏している。ドレスデンやベルリンで活躍したベームは、レパートリーこそ少なかったがモーツァルトの典雅な「コジ」やベートーヴェンの記念碑的「フィデリオ」など、いくつかの歌劇作品で、長きに亘りこれを凌駕することはないほどに完成度が高い演奏を残した。

晩年どちらかというとウィーン・フィルの技量に頼って演奏しているようなところがあるが、若い頃は前衛的な音楽を得意とする指揮者だった。ベルクやリヒャルト・シュトラウスの名高い演奏も多く、逆にブルックナーやマーラーの演奏は少ない。そして古色蒼然としたあのバイロイトのワーグナーもまた、歴史に残る記録である。そんなベームが残したベルリンとの「ブラいち」は、彼の遺産の一つとして今でも燦然と輝いている。

車窓から見る甲府盆地の風景

NHK交響楽団第2033回定期公演(2025年2月21日NHKホール、下野竜也指揮)

これまで私は、N響の聴衆というのは高齢者が多く、どこか醒めていると感じていた。例えば杖をついていても歩きにくい人をよく見かけたし、そういう人が休憩時間に並ぶトイレはやたら時間がかかって混み合い時間が足りない(そのせいか、いつの間にか15分の休憩時間が20分に延長された)。補聴器へ...