2025年3月31日月曜日

ブラームス:「悲劇的序曲」ニ短調作品81(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ブラームスの2つある演奏会用序曲はほぼ同時期に作曲された。片方が「悲劇的序曲」なら、もう片方の「大学祝典序曲」は喜劇的作品(ブラームス自身「スッペ風」と言った)である。ブラームスは丸で喜劇的傾向を埋め合わせるかのように「悲劇的」を書いた。「喜劇的」(笑う序曲)の方は必要に迫られて嫌々?作曲したが、「悲劇的」(泣く序曲)の方はそれを皮肉るかのように?作曲した。ブラームスとしては、「悲劇的」にこそ重心を置き、自らの精力をより重点的に注いだ、と思われる。

これは聞いてみると明らかだ。「悲劇的序曲」はわずか十数分の曲ながら、交響曲を聞くような重厚さと複雑さを有している。交響曲のレコードの余白に収録されることが多いため、長い間私は、この作品を軽視してきた。コンサートで取り上げられる時も、どこか気乗りのしない気分だった。「悲劇的」などというタイトルが付けられていることが、どこか暗くて楽しめない作品に思えていたのだ。だがそれは違った。メロディーは時に静かで美しく、かと思えば激しく迫力がある部分もあって飽きることがない。その全体にブラームスの香りが充満している。

レナード・バーンスタインが2度目となるブラームス交響曲全集を、ウィーン・フィルと録音したのは80年代初頭の頃だった。この頃のバーンスタインはウィーン・フィルと蜜月関係にあって快進撃を続けており、その金字塔とも言うべきベートーヴェン交響曲全集をリリースして少したった頃だった。だが、ベートーヴェンの方はデジタル録音の時代に間に合わなかった。ドイツ・グラモフォンのLPレコードのジャケットの右上がペロッとめくれているのが「デジタル録音」のしるしで、これがあるととても新鮮な感じがしたものだった。

我が家にはそのバーンスタインのベートーヴェン全集に続き、ブラームス全集が揃えられた。4枚組。順番に聞いていった。3つの管弦楽作品が各交響曲の後に収録されていた。演奏時間の関係からこれらの作品は、第2番や第3番とカップリングされることが多いが、作曲されたのも丁度この時期である(バーンスタイン盤では第4番の後)。ブラームスの作品はその多くをウィーン・フィルが初演しているが、この「悲劇的序曲」もその一つである。

バーンスタインの演奏は、それまでにない共感を覚える新鮮さに加え、艶と深みのある魅力的なものだった。ウィーン・フィルの特徴を最大限に引き出すと当時に、これをライブ収録することで、熱のこもった臨場感と二度と同じ演奏はできないと思わせるほどの緊張感を併せ持っていた。この様子は今でも色あせることがない。久しぶりにそのバーンスタインの「悲劇的序曲」を聞いている。

数ある「悲劇的序曲」の演奏の中で、バーンスタインの演奏は遅い部類に入る。この曲ではキリっと引き締まった直線的演奏が多いが、バーンスタインは丸でシューマンの曲のようにテンポを揺らす。和音がバシッと決まると、続いて大海原を行くかのような深い呼吸に合わせ、管楽器が思い入れを込めて歌う。この中間部にある静かな行進曲風のメロディーの印象的なこと!

音楽は多様に変化しつつも、その過程に目まぐるしさを覚えることはなく、複雑であるにもかかわらずむしろ自然に進む。凝縮された中に次々とメロディーが浮かんでは消え、そのそれぞれに作曲家と演奏家の息遣いを感じるのは、曲の完成度がすこぶる高い証拠だろうと思う。ずっしりと重いが、無駄がない。筋肉質の体操選手に見とれるような感覚とでも言おうか。そしてフィナーレで一気に弦楽器が駆け上り、鮮やかに曲が終わる。バーンスタインのように、表情付けが堂に入って多彩であればこそ、短い中に多くの要素を味わうことができる素晴らしい曲としての真価があらわになる。

2025年3月30日日曜日

ブラームス:「大学祝典序曲」ハ短調作品80(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団)

いまの大学入学共通テストが共通一次試験と呼ばれていた頃、理数系の大学を目指す受験生として私が毎晩耳を傾けていたのが、旺文社の提供する「大学受験ラジオ講座」だった。この番組は全国のAM局でも放送されていたが、私が専ら聞いていたのは日本短波放送(ラジオたんぱ。現、ラジオNIKKEI)での放送で、確か夜の11時台だったように思う。テキストを買って毎晩異なる教科の講座を聞くのだが、日によっては受信状態が悪く、ノイズや伝播障害で聞き取れないことも多かった。

その番組のテーマ音楽が、ブラームスの「大学祝典序曲」の一節だったことはよく知られてる。ラジオたんぱにはこのほかに、「私の書いたポエム」(モーツァルトのト短調交響曲)や「百万人の英語」(ハイドンの「時計」)といった番組もあって、クラシックの有名曲がテーマ音楽に使われていたのでよく覚えている。だがその「大学祝典序曲」が何と、われらが阪神タイガースの元主砲、掛布選手のヒッティング・テーマの原曲であることは、80年代以来の阪神ファンである私も知らなかった。

それほどにまで我が国では有名な同曲だが、この曲を演奏している指揮者はさほど多くない。というより大指揮者でもなぜかこの曲を演奏していない人が多いのだ。カラヤンしかり、ジュリーニしかり、ベームしかり。いずれも「悲劇的序曲」や「ハイドンの主題による変奏曲」には名演奏を残しているにも関わらず、である。なぜだろうか?

想像するにブラームスは、あまに気乗りしないまま作曲したので、安直な、従って低俗な曲だとみなされているからではないだろうか?それはブラームス自身が言っている。彼はある大学から贈呈された博士号に対するお礼のため、学生歌をつなぎあわせるような形で作曲した。並行して作曲した「悲劇的序曲」とは対照的に、明るく楽天的な曲である。口ずさめるようなメロディーが次々と現れるので親しみやすい。おそらくブラームス嫌いの人でも、この曲は楽しめると思う。

私も音楽を聞き始めて、初めて親しんだブラームスの作品だった。わずか10分の曲で歌謡性に溢れているが、それでもブラームスらしい音運びは十分に感じられる。大学合格を目指す受験生には相応しく、最後にはシンバルやトライアングルも伴って華やかに盛り上がり、大変ハッピーな気分で終わる。初演の指揮は作曲者自身だった。

私の好みの演奏は、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した一枚ということにしたい。この演奏は、ステレオ初期にハリウッドで録音された交響曲全集に含まれているもので、何度もリマスターされては再発売されているが、録音も大変ヴィヴィッドで晩年のワルターとは思えないほどの溌剌さが感じられる。演奏として大変立派だが、ドイツ風の重厚な響きを求める人にとっては、本物ではないと感じられるかも知れない。ワルターはウィーンの正統的な指揮者だから、敬意を表しないわけにはいかないので、大変ユニークな演奏と言えるだろう。しかし「大学祝典序曲」に関しては、このような議論は不毛である。

さてこの曲をテーマ曲としていた「大学受験ラジオ講座」はいつまで放送されていたのだろうか。いろいろ調べてみたところ、それは95年頃までのようだった。今から30年も前のことである。一方、1952年には番組が始まっているというから大変な長寿番組だったということになる。伊藤和夫、寺田文行、J・B・ハリスといった名講師陣の声が思い浮かぶ。

2025年3月26日水曜日

ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90(クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

4曲あるブラームスの交響曲の中で、第3番は私が最も親しみやすいと感じている作品である。にもかかわらず、この曲が演奏されることは他の3曲に比べ少ない。何故だろうか?よく理由に挙げられるのは、すべての楽章が静かに終わる点と、中途半端な長さである。しかし哀愁を帯びた第3楽章は、ブラームスの最も美しいメロディーとして有名だし、両端の楽章はそれなりに迫力もあって飽きることはない。他の曲があまりに有名で立派なので、その陰に隠れてしまっているからではないだろうか。

この曲の特徴はシューマンの影響がもっとも色濃く出ている点だろう。特に同じ交響曲第3番の「ライン」は、冒頭などが似た感じである。シューマンの匂いがほのかに香り、少しもやのかかったような明るさが感じられて好ましい。ブラームスの作品の中では特にリラックスした作品で、その真骨頂は第2楽章ではないだろうか。それは第2番以上に落ち着いた室内楽的ムードであり、静かで孤独でもあるのだが、不思議に淋しくはない。

春霞の中を散歩するような緩徐楽章に引き続いて、第3楽章は深まる秋に戻るのは面白いが、これは私の勝手な感覚である。この曲の第4楽章を初めて聞いた時、これは意外にも大規模な曲だと思った。静かに終わると聞いていたので、もっと地味な作品だと思ったのだ。だがコーダの直前までアレグロで突き進む。大規模なコーダで華やかに終わるのが好きなのはクラシック音楽を聞き始めた若い時だけで、歳を取ると次第に静かに終わる曲が好ましく思えて来る。

そのような第3交響曲の演奏は、どのようなものが思い出に残っているだろうか。私の好みは、この曲をあまり壮大に演奏しないことだ。特に第1楽章の冒頭を大きくロマンチックに演奏すると、どこか締まりのないものに聞こえる。もっとも私はシューマンの「ライン」についてジュリーニの演奏が好みなのだが、どういうわけかこの曲については、縦のラインをそろえたきりっとした演奏を追い求めてきた。

そして私のお気に入りは、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルを指揮したものである。アバドには若い頃に、この曲をシュターツカペレ・ドレスデンと演奏しているようだが、私は聞いたことがない。アバドの演奏は、この曲のそれまでのドイツ的名演奏を聞いてきた人にとっては、少し物足りないものではないかと思う。だが私はあまりそのようなものに捕らわれることなくこの曲に入ってきたので、アバドの新鮮な解釈は大変好ましく思えた。新しい時代のブラームス像を、この演奏は示していると思う。

2025年3月12日水曜日

サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーゾ(Vn: ジノ・フランチェスカッティ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番を実演で聞いたことをきっかけに、このブログでも書いておこうといろいろな演奏を探していると、この曲は昔からフランチェスカッティによるものが名演であることを思い出した。そういえば我が家にも、彼の演奏するレコードがあった。ただ、それはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だったような気がする。伴奏はセル指揮クリーヴランド管弦楽団。その余白に収録されていたのが「序奏とロンド・カプリチオーゾ」だった(と思うが実は怪しい)。

ヴァイオリン独奏とオーケストラのための10分足らずのこの小品は、親しみやすいメロディーで一度聞いただけで忘れられない曲である。明るい音色と、どこか懐かしさを感じさせる抒情性がマッチして、フランス音楽の最も特徴的な側面がストレートに表現されているように思う。ビゼーやドビュッシーがこの曲を編曲していることや、そもそもヴァイオリンの名手サラサーテに捧げられていることからも、この曲の人気が不動のものであることを裏付けている。

その「序奏とロンド・カプリチオーゾ」は、息子が小さい頃に習っていたヴァイオリンの発表会で、先生がその演奏を披露することが多かった曲である。師走の休日の、静かな快晴の午後。ピアノを伴奏に甘く切ない音楽に耳を傾けていると、時が昔にタイムスリップしたような感覚に捕らわれたものだった。そういうことからかこの曲は、私にとって古色蒼然としたセピア色の思い出に染まっている。

ジノ・フランチェスカッティは、フランスの技巧派ヴァイオリニストで、サラサーテの作品やサン=サーンスの演奏で知られている。米コロンビアに残した数々の名演は、録音が古くなってしまった今でも独特の光を放っている。確かな演奏家の音は、録音の古さを乗り越えて輝きを放つ。フランチェスカッティもまたその一人である。

「序奏とロンド・カプリチオーゾ」は、バックをユージン・オーマンディが務めている。当然オーケストラはフィラデルフィア管弦楽団である。その演奏を改めて聞いてみた。ステレオ録音なのに丸で蓄音機から聞こえてくるようで、レトロという言葉がこの演奏にピッタリである。耳元でクリヤーに蘇ったその音は、一音一音が鮮明で指使いまでもが手に取るように伝わって来る。キリっと引き締まった楷書風の演奏が、またいい。

仕事が終わって夕食のあとのひととき、グラスに少々のウィスキーを傾けながらひとりこの演奏に耳を傾けていると、無性にセンチメンタルな気分になった。音が少しやせていることまでもが、魅力に思えてくる。あばたもえくぼ、ということだろうか。

ブラームス:「悲劇的序曲」ニ短調作品81(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ブラームスの2つある演奏会用序曲はほぼ同時期に作曲された。片方が「悲劇的序曲」なら、もう片方の「大学祝典序曲」は喜劇的作品(ブラームス自身「スッペ風」と言った)である。ブラームスは丸で喜劇的傾向を埋め合わせるかのように「悲劇的」を書いた。「喜劇的」(笑う序曲)の方は必要に迫られて...