これは聞いてみると明らかだ。「悲劇的序曲」はわずか十数分の曲ながら、交響曲を聞くような重厚さと複雑さを有している。交響曲のレコードの余白に収録されることが多いため、長い間私は、この作品を軽視してきた。コンサートで取り上げられる時も、どこか気乗りのしない気分だった。「悲劇的」などというタイトルが付けられていることが、どこか暗くて楽しめない作品に思えていたのだ。だがそれは違った。メロディーは時に静かで美しく、かと思えば激しく迫力がある部分もあって飽きることがない。その全体にブラームスの香りが充満している。
レナード・バーンスタインが2度目となるブラームス交響曲全集を、ウィーン・フィルと録音したのは80年代初頭の頃だった。この頃のバーンスタインはウィーン・フィルと蜜月関係にあって快進撃を続けており、その金字塔とも言うべきベートーヴェン交響曲全集をリリースして少したった頃だった。だが、ベートーヴェンの方はデジタル録音の時代に間に合わなかった。ドイツ・グラモフォンのLPレコードのジャケットの右上がペロッとめくれているのが「デジタル録音」のしるしで、これがあるととても新鮮な感じがしたものだった。
我が家にはそのバーンスタインのベートーヴェン全集に続き、ブラームス全集が揃えられた。4枚組。順番に聞いていった。3つの管弦楽作品が各交響曲の後に収録されていた。演奏時間の関係からこれらの作品は、第2番や第3番とカップリングされることが多いが、作曲されたのも丁度この時期である(バーンスタイン盤では第4番の後)。ブラームスの作品はその多くをウィーン・フィルが初演しているが、この「悲劇的序曲」もその一つである。
バーンスタインの演奏は、それまでにない共感を覚える新鮮さに加え、艶と深みのある魅力的なものだった。ウィーン・フィルの特徴を最大限に引き出すと当時に、これをライブ収録することで、熱のこもった臨場感と二度と同じ演奏はできないと思わせるほどの緊張感を併せ持っていた。この様子は今でも色あせることがない。久しぶりにそのバーンスタインの「悲劇的序曲」を聞いている。
数ある「悲劇的序曲」の演奏の中で、バーンスタインの演奏は遅い部類に入る。この曲ではキリっと引き締まった直線的演奏が多いが、バーンスタインは丸でシューマンの曲のようにテンポを揺らす。和音がバシッと決まると、続いて大海原を行くかのような深い呼吸に合わせ、管楽器が思い入れを込めて歌う。この中間部にある静かな行進曲風のメロディーの印象的なこと!
音楽は多様に変化しつつも、その過程に目まぐるしさを覚えることはなく、複雑であるにもかかわらずむしろ自然に進む。凝縮された中に次々とメロディーが浮かんでは消え、そのそれぞれに作曲家と演奏家の息遣いを感じるのは、曲の完成度がすこぶる高い証拠だろうと思う。ずっしりと重いが、無駄がない。筋肉質の体操選手に見とれるような感覚とでも言おうか。そしてフィナーレで一気に弦楽器が駆け上り、鮮やかに曲が終わる。バーンスタインのように、表情付けが堂に入って多彩であればこそ、短い中に多くの要素を味わうことができる素晴らしい曲としての真価があらわになる。