2025年11月26日水曜日

映画:国宝(2025年)

今年公開された映画の中で最大のヒット作である「国宝」は、吉田修一による同名の小説を原作としている。私は原作を読んでいないが、映画で見た本作は、大変見ごたえのあるものだった。その理由は、二人の主役を演じた俳優(吉沢亮、横浜流星)の名演技に加え、ツボを押さえた大胆な脚本の見事さと、アップを多用した集中力あるカメラワークにあったと思う。結果的に、小説では味わえない映画作品としての成功を収めているのだろうと感じる。

長崎で始まるストーリーは、すぐに関西が中心となって続き、最後に少し東京へも移る。俳優はみな関西人ではないが、セリフのほとんどが関西弁であることは、大阪出身の者として何か嬉しい。歌舞伎はそもそも上方で発展したから、ということもある。登場する演目に「曽根崎心中」や「二人道成寺」のような、関西を舞台とするものも多く登場する。

私は歌舞伎を見たことはないが、実は幼い頃に大阪ミナミの新歌舞伎座で、祖母に連れられて見たことになっている。まだ4、5歳の頃だった。幼い私は開演前のわずかな時間、花道の上で遊んでいたらしい。やがて係員が来て、「そろそろ降りて下さい」と言われた。私はそのことを良く覚えていて、もしかするとそれが最も幼い頃の記憶ではないかと思う。

その歌舞伎の女形を目指す若い二人の若者が、本作品の主人公である。あまりに多くのことが語られているので、その詳しいあらすじをここに書くことは控えよう。私が書きたいのは、その3時間にも及ぶ作品をみた簡単な感想だ。これまで映画のことなど書いて来なかったし、造詣が深いわけでもない。年に数本見ればいい映画鑑賞経験の中で、しなしながら本作品については少し書き留めておきたい衝動に駆られている。その理由は、おそらく作品が持つ解釈の多面性にあると思う。どこをどう切り取って話すにしても、それなりに深みのあるものになっていく作品は、さほど多くはない。

オペラと同様、長い小説を映画化するにあたって、映像として残す部分のみを最小限とし、一方で、歌舞伎の演目と主人公の心理描写をシンクロさせつつ、綺麗で鮮やかなカメラワークを多用した。その結果、多様な解釈の余地を残しつつ完成度の高い作品に仕上げることに成功した。もしかすると、二人の主人公の心理的な側面、交錯する友情や対立を、もう少し丁寧に描くことができたかも知れない。しかしそれでは、3時間の尺に収めることなどできなっただろう。かといって連続ドラマ化すると、集中力が失われぼけた作品になる。そのギリギリのせめぎ合いの結果、小説なら細かく描かれているであろう部分は、見る者に委ねられることになった。映像作品としての完成度に重点を置くことで、結果的に小説にはない魅力を得たような気がする。

二人は同い年、しかも少年時代の俳優を含め顔つきがそっくりである。二人が長い準備期間において獲得した歌舞伎独特の所作や円舞の技術は、見事というほかない。カメラはそれらを追い、しばしばアップで写す。歌舞伎好きの人が作ったのだろう。このような伝統芸能を主題としながら3時間もの間、息をつかせないほどに観客の目を惹きつけていく手法には、ただ驚くばかりである。

テーマは血筋が才能か、といったことだが、60歳近くになる者にとって、まあそれはどうでもよいことのように思えてくるのが正直なところ。まだ若い彼らは、向上心も劣等感も強く、そのことが嫉妬を生み、情熱を喚起する。私はそのような若者の持つエネルギーやどうしようもないやるせなさを思いつつ、そうか、この映画は多くが男性の論理に貫かれている、今では少ない作品であることに気付いた。つくづく男の人生は過酷だな、などと思った。女性の視点で見ると、また異なった見方があるのだろうけど。

6月に公開されたにもかかわらず、11月末になっても多くの観客を集めて上映されている。私が見たのは日曜日だったので、広い映画館はほぼ満員。迫真の演技に見とれながら、細かいところであの人はその後どうなったのか、なぜここはこのようなことになるのか、など多くの疑問が生じた。その答えを見つけるのは、見る人にかかっている。何度も細かく見れば、ヒントがあるのかも知れない。しかしそうしなくても、そして歌舞伎のことなど何の基礎知識がなくても、十分に楽しめる作品である。

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