2013年10月13日日曜日

ヴェルディ:歌劇「リゴレット」(2013年10月12日、新国立劇場)

「トロヴァトーレ」「椿姫」と並び中期の三大傑作とされる「リゴレット」は、他の二作と比べるといささかとっつきにくい作品ではないかと思う。「トロヴァトーレ」では歌に酔っていればいいし、「椿姫」ではドラマに涙していれば良い(もちろん歌も素晴らしい)。だが「リゴレット」はそう簡単ではない。強いて言えば「リゴレット」にはその両面があり、しかも他の二作品では、他の要素に埋もれてしまっている要素が、厳然と強調されて存在する。「リゴレット」はヴェルディがヴェルディらしさを発揮した最初のステップであると言える。そのことによって、聞き手はヴェルディのオペラが、単に歌やストーリーを追えばいいだけの作品ではないことを知る。

「トロヴァトーレ」ではジプシー女が、「椿姫」では娼婦が、それぞれ身分の低い存在として登場し、その身の哀れさゆに悩み、動き、堕ちていくといったことがあるが、このことを知らなくても(あるいは知ろうとしなくても)、作品は楽しい。だが「リゴレット」ではそうはいかないのである。この作品の主人公は、もやはテノールでもソプラノでもなく、負の運命を背負ったバリトンである。その運命とは、外見的には身体的な不自由さと身分だが、そのことによってさらに負うことになる宿命が加わる。それこそこの作品のテーマでもある「呪い」だが、私にはこれは偶然によってもたらされたものではなく、必然的に彼が背負うことになったものだと感じる。

だとすればこれほど救いようのない作品はない。「トロヴァトーレ」のジプシー女は、最後には復讐を果たし、「椿姫」では心が昇華して、美しさのあまり死んでいくが、「リゴレット」の幕切れに残るのは、最後の心の砦であった最愛の娘を失った道化師の姿であり、その運命の残酷さである。マントヴァ公の脳天気な歌声が響けば響くほど、それは強調される。だがマントヴァ公にはさほど悪意はなく、ジルダはただひたすら可愛らしい。そうであればあるほど、リゴレットの哀れさは強調される。

このような心の内面を深くえぐるような作品では、いかなる装飾的な舞台も主体足り得ない。むしろそれらは無駄でさえある。ウィリー・デッカーの「椿姫」のように、もしかしたら舞台にソファーがひとつだけ・・・というのもありかも知れない(もっとも主人公が老人なので動きは少ないが)。だが、今シーズンの新演出だった新しい新国立劇場の「リゴレット」は、6月に見た「ナブッコ」の時と同様の大胆な読み替え演出(担当はアンドレ アス・クリーゲンブルク)で、しかもその出来栄えは「ナブッコ」には、私にとって遠く及ばないものだった。

舞台は現代のホテルということになっている。前奏曲の間に幕が開き、左右に配置されたバー・カウンターと、中央の4階建てのホテル。その廊下に大勢の客がたむろしている。その中には下着姿の売春婦もいる。高級ホテルということになっているようだが、このような雰囲気はむしろアジアの中級クラスのようでもある。そういえば90年代の終わりの頃にマカオに行ったが、そこの有名な老舗ホテルのロビーやカジノには、それとわかるロシア人の女性が大勢たむろしていた。あの雰囲気にそっくりである。

歌が始まるとその舞台はやおら回転を始め、どこから誰が登場してくるのか目を追うのに忙しく、歌に集中できない。せめてアリアの部分では回転を停止すべきだろう。リゴレット(バリトンのマルコ・ヴラトーニャ)は、背中にコブをもっているが、ここの場面では身分がよくわからない。娘を探してホテルに迷い込んだ老人のようでもある。一方、マントヴァ公(テノールのウーキュン・キム)は成り上がりのアジアの若き小銭持ちで、やはり正体は不明。ホテルとはいわばそのような得体の知れない空間ということだ。

深夜になってバーに残ったリゴレットは、もう片方の端にあるバーでスパラフチーレ(バスの妻屋秀和)に出会う。ここのシーンは舞台が余計な表現を控えているので歌に集中することができた。だが再び舞台は回転し始め、いよいよジルダ(ソプラノのエレナ・ゴルシュノヴァ)の登場となる。低音の響きばかりを聞かされて重々しい気持ちが、ここで一気に明るく快活となる部分が、私はもっとも好きだ。ここはリゴレットの心の様子が観客と同一体験できるヴェルディ音楽の真骨頂である。

歌手について触れておくと、マントヴァ公のウーキュン・キムは、なかなか良い。本公演の中ではもっとも良かったと思う。特に第2幕以降は尻上がりに調子が良くなった。一方、ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァは、声の質が美しく可憐である。これはこれでいい。主役のマルコ・ヴラトーニャは、美しかったが力強さにやや欠けるところがあり、音楽に押されてしまう。ピエトロ・リッツォ指揮する東フィルの伴奏は、ヴェルディらしさを強調する必要性から、その力強さを押さえない。それはいいのでが、ジルダが線の細い声であれば、リゴレットはもう少し強くても良かった・・・というのは私の勝手な感想で、ここで見せる父親の弱さは、こういう風に表現してもいいのかも知れないが・・・。

合唱はいつも良い。その合唱は第2幕で活躍する。そしてその第2幕は冒頭から、マントヴァ公の独壇場であった。この第2幕は本公演でもっとも見応えがあったが、その舞台は第1幕と同じ回転ホテルである。指揮とオケ、それに合唱は大変良く、私は大いに評価したい。 私は今回、「リゴレット」の第2幕を見ながら、もしかするとヴァルディは自分の心をリゴレットに重ねあわせていたのではないかと思った。自らも最愛の娘を失ったヴェルディは、この頃はジュゼピーナと内縁関係にあったが、彼女のとの生活は保守的な農村の世間体もあって、困難なものだったようだ。もし娘に先立たれなかったら、どのような関係となっていったかをいろいろ想像したに違いない。

ところが第3幕になると舞台は一変し、そこはホテルの屋上となった。「Spumante Duka!(公爵の発泡ワイン)」の栓抜き看板がデカデカと中央に置かれ、聴衆の大いなる笑いを買うかと思ったが、誰も笑わない。それどころか、あの素晴らしい四重唱も聞かせたが、何とものりが悪い。ここはスパラフチーレの仕事場で、舞台はまあ良かったと思うが、ここまで来て客席は少し戸惑いムードだったようだ。 マッダレーナ(メゾ・ソプラノの山下牧子)の歌も悪くはなく、その他の日本人の脇役はみな素晴らしかったと思う。

主役を含め、みは平均かそれ以上の出来栄えだったと思うのだが、どうしてこんなにしらけたムードだったのか。私はこのブログを書くにあたって、大いに考えた。演出の斬新さ(それは昨シーズンのMETライブで見たマイケル・メイヤーのラス・ヴェガスに舞台を移した演出によく似ている)のせいなのだろうか。確かに美しい歌を聞いている間に、舞台のあちこちで艶かしい姿の女性が絡むシーンは、見るものを混乱させる。だがこれは確信犯である。むしろそれを受け付けない客席のせいなのだろうか。私はどちらもあるように思う。

先日見た「ワルキューレ」でもそうだったのだが、そもそもオペラに、まるで近所の本屋にでも出かけるようないで立ちでやってくる老人とは一体何者なのだろうか。彼らはあのヴェルディの音楽を聞くときの、まるで遠足に出かける子供のような気持ちを持ち合わせているように感じられない。容姿のことを言うわけではないが、お金のない若者ならいざしらず、オペラに出かける時の興奮した気持ちは、服装でも少しは表現してもらいたい。そして、彼らが期待する舞台は、保守的なイタリアの田舎街のサロンなのだろうか?醒めた客に、過剰な演出。このふたつが、そこそこ好演している出演者を押しのけてしまった。それならいっそ、もっと緊縮予算で簡素な舞台にでもしたほうが良かった、ということだろうか。

そういえばロビーで、この舞台を組み立てた舞台製作会社によるビデオ上映もあった。丸3日かけて完成させる4階建てのホテルの組み立てを早送りにした映像は興味深かったが、そこまでして表現すべきものが、十分に饒舌な音楽以上にあるとも思えない。そこまでわかった上でブーイングをする観客に満ちていたわけでもない。全体にやや欲求不満な「リゴレット」だったが、そう簡単に片付けてしまうのも勿体無いとも思う。何せ「リゴレット」なのだから。 

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