開演に先立ってマイクを持ち、簡単な挨拶を行った指揮者の沼尻竜典は、今年から引き受けたドイツの歌劇場で、ドイツ・ロマン派オペラの魁となったこの作品を、せっかくだから上演してはどうかと持ちかけたところ、この歌劇は観客の目が厳しく、よほどの名演にしなければいけないとたしなめられた、などと語った。にもかかわらずドイツ以外の国々での「魔弾の射手」は、さほど人気があるわけではなく、我が国でも序曲以外はあまり知られていないようだ。
だがこの作品が大好きな私は、一度その実演に接してみたいと思っていた。その願いはなかなかかなうことがなく、何組ものCD以外ではただ一度、映画になった作品を見ただけである。合唱だけでなく、全編にとても素敵な歌が続くこのオペラは、ベートーヴェンとワーグナーを繋ぐ重要な作品であり、 私のオペラ体験において欠かすことの出来ないものである。第2幕の「猪谷の場」などは、真面目に演奏されればとても充実した満足感が得られる。
そんなことを思っていたところ、同じ沼尻の指揮する「ワルキューレ」を横浜で見た際にもらったチラシに、この公演のものが混じっていた。日本人主体の演奏会形式だが、三鷹市芸術文化センターという中規模のホールが、この作品を間近で見るのには大変好ましいものに思えたし、何と言ってもここは、私が三鷹に住んでいた時によく通ったホールである。そして沼尻は、その三鷹市出身の指揮者として随分前から、ここで定期演奏会を開いている。
久しぶりに出かけた武蔵野の森は、10月だというのに汗ばむ陽気で、駅前は以前のままである。南に向ってまっすぐ伸びる長い商店街をふらふら歩くこと約30分程で会場へ到着した。この日はトウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズの定期演奏会ということになっており、合唱団と歌手たちを合わせると出演者は数多く、字幕も付いている。舞台の上部には様々な色の投影機も用意されていて、一応物語に応じて色が変わった。
主な出演者は以下の通り。
松村恒矢(Br、オットカール)、松中哲平(Bs、クーノー)、立川清子(S、アガーテ)、今野沙知恵(S、エンヒェン)、大塚博章(Br、カスパー
ル)、伊藤達人(T、マックス)、清水那由太(Bs、隠者)、小林啓倫(Br、キリアン)他、栗友会合唱団、トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ。指揮は沼尻竜典。
ここの「風のホール」はとても残響が長く、いつも思うのだがオーケストラが違った風に聞こえる。残響は長ければいいというわけではなく、好みの問題もあって一概に言えないが、私には少々違和感がある。とてもいい演奏の時、たとえば今回でも、エンヒェンのアリアに沿うオーボエやフルートの独奏は大変美しいし、第3幕のチェロやヴィオラの独奏も綺麗に聞こえたが、大きなアンサンブルとなると音がかぶりすぎるように思う。そのためオーケストラは小規模で合唱団も40人程度と少ない。
歌手は総じて好ましい歌声であったが、特に良かったのはアガーテとカスパール、それに隠者であった。日本人の歌手が主役を歌う機会に恵まれないのは残念なことだが、それだけにとても練習をしていたと思う。今回は特に、新国立劇場の研修生など若手中心であったが、それは私の期待するところである。それに対しオーケストラはやや不足感があったことは否めない。第1幕の「ワルツ」のシーンでは、単純な3拍子を振る指揮者に対し、元ウィーン・フィルのコンサートマスターで、ゲスト出演のウェルナー・ヒンク氏は、自らの主張(それはウィーン風のそれかも知れない)を込めて、リズムを刻もうとしていた結果、合奏に若干の乱れがあった場面などに象徴的に現れていた。一方、活躍の多い合唱は少数精鋭で素晴らしい。
私にとってはこの歌劇を一度は生で聞いてみたいと思っていたので、その目的が達成されたことが嬉しい。上演では各幕の最初に短いダイアローグがドイツ語で流れ、その訳がスクリーンに投影された他は、台詞を省いた演奏である。そのことが全体を弛緩なく見ることに寄与したかも知れないが、さりとてそのストーリーは、たとえ字幕がついていても聞いてすぐにわかるというものでもない。このオペラの醍醐味は、やはり音楽そのものの純粋な美しさと、溢れるロマン性である。ドイツ的なロマン性は実に表現が難しい。
ここで私はもっとも好きなコリン・デイヴィスの演奏を思い出す。ドレスデンの響きを湛えたデイヴィスの演奏は、ドイツ的かどうかはわからないがとても気合の入ったもので、各シーンが目に浮かぶような迫力がある。総じて演奏は、力強いがゆっくりしている。このズッシリ感は私もやみつきなのだが、クーベリックの軽やかさ、クライバーの駆け抜ける若々しさなどとはまた違ったものである。
今日の演奏は、そのどの演奏に近いか、などと余計なことを考えた。沼尻は音楽そのものに語らせることに力点を置き、自ら強い主張をしない方だと思う。そこが私も好感を持っているところで、実演では歌手を引き立たせているようだ。アンサンブルをうまくまとめることが、やはり重要だと思う。だが、幾分、音楽をなぞっているという感じがしないでもなかった。つまり一言で言えば、音楽に対するこだわりや情熱にやや欠けるのだ。それは客席にも言えた。合唱と、そして何人かの歌手はとても素晴らしかったが、全体に盛り上がりに欠けてしまった。
これは仕方がないのだろうとも思う。休日の昼間に郊外の文化センターへ出かける老人たちは、一体何者だろうかなどとも思ったが、見る方にもわくわくどきどきの熱い視線がないと、このオペラはうまく成立しないように思う。そこがモーツァルトやワーグナーとの違いである。だが一度、その熱い感覚の中に入る状態となれば、音楽の素晴らしさが際立ってくる。そのようにして長く試練に耐えた演奏だけが、今日録音されリリースされていると考えるべきだろう。げに歌劇というものは、その文化的背景に依存する部分が大きければ大きいほど、難しいものだと思う。それがこの作品を、ドイツ以外の地域にまで普遍化して広まることを、やや難しくさせているのではないか。
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