モーツァルトの「フィガロの結婚」ほどよく語られるオペラはない。オペラに関するあらゆる書物で、初心者向けの「最初に聞くべきオペラ」の筆頭は、ほぼ間違いなく「フィガロ」である。あるいはもう少し本格的な音楽史、オペラの専門的な分野の書物でも、「フィガロ」は重要な作品と位置付けられている。モーツァルトの伝記でもそうだ。そして人気の点でも、また上演される機会の多さにおいても、これほどよく知られた作品はない。
そうであれば聞き手の作品への期待は一気に高まる。音楽は全編にわたって素晴らしく、歌が耳を魅了してやまない。歌手たちの演技やその在り方においても、限りない数の解説がなされている。発売されているCDも多い。古くはエーリヒ・クライバーやカール・ベームの、古き良きウィーンの演奏から、古楽器奏法により一世を風靡したアーノンクールやガーディナーの歴史的録音、アバドやカラヤンの個性的な名演奏まで、いずれも評価が高い。
そのような「フィガロ」を、私はこれまで一度も見ていない。それは不思議な事で、実際、モーツァルトの他のオペラ、すなわち「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の実演はすでに経験済みである。一度でいいから「フィガロ」をと思いつつ、これほどよく上演されるオペラもないので、いつでも見られるだろうと、思っていた。だが、そう言っていてはいつまでたっても機会がない。丁度、新国立劇場の新シーズンに、これまで何度も上演されてきたアンドレアス・ホモキのモノクロな舞台が登場する。ここ数年は、新国立劇場で数々の名演奏に接することができているので、これを見逃すこともない。妻はモーツァルトのオペラを見たいと言い出したので、私は迷わずチケットを買った。
今秋何度目かの台風の到来となった土曜日の午後だったが、第1幕の終わる頃には晴れ間ものぞかせた。だが少なくともそれまでの舞台を見た私には、これほど閉塞感のあるオペラは初めてである。いくつかの評価すべき事柄を差し押さえて、この上演は完全なる失敗であったと言わざるを得ない。私にとってのオペラ体験の中で、これほど失望を味わったことはない。その理由を以下に書こうと思うが、これを書くまでに私はなかなかショックから立ち直れなかった。だが、少なくともこれは個人的意見である。私の後に座っていた若い女性グループは、その会話内容からとても感心した様子であった。見る人によっては、名演であった可能性もないわけではない。
失望に終った主な原因は、歌手の力量不足(フィガロ、伯爵、それにケルビーノ)である。声が出ていないことに加えて、表情に乏しい。このことによって好演していたその他の歌手(伯爵夫人、スザンナ)が沈んでしまった。アンサンブルも大きくは乱れていないものの、共鳴し合うところがない。「フィガロ」の命とも言うべき部分が、これで引き立つことがなく、ただ長いだけの結婚式のたわごととなった。
指揮(ウルフ・シルマー)と東京フィルハーモニーは悪くないどころか、非常に良い。合唱もしかりである。演出はどうか?2003年以来続いている、白と黒の四角形で構成される(だけの)評判の演出について、私は好感を持っている。ダンボール箱とタンスだけの道具は、時折スポットライトの色が変わる以外は、ずっとそのままである。壁が徐々に傾いて、最後は舞台自体が傾く。衣装も徐々に簡素になっていく。このことが「フィガロ」の最も重要なメッセージの核を浮き立たせる。絶対的な価値観の喪失と人間性への賛美。どこでも十分に語られている「フィガロ」のメッセージは、それだけを残した形で舞台で表現される。
このような必要最低限にまで一般化され、贅肉を削ぎ落した演出では、集中力を維持しつつ早いテンポで一気に聞かせる伴奏がふさわしい。問題はそのようなオーケストラと演出に、ついていけていないのである。歌手の実力からすれば、高すぎるレベルの演出であったと思う。
フィガロは代役となったイタリア人のマルコ・ヴィンコ。彼はバスの声である。どちらかというとお調子者のフィガロには不向きである。それを逆転できるほど個性が際立たない。フィガロの人間味が出ないのでは、舞台は白けてくる。これが一番の原因である。一方のスザンナは日本人として抜擢された九嶋香奈枝であった。彼女は最高に素晴らしく、この舞台で一人気を吐いていたが、そのことがかえって気の毒であるように感じられた。
もう一人の成功はマンディ・フレドリヒの歌った伯爵夫人で、この素晴らしいソプラノはスザンナ以上に板についており、第2幕の冒頭のアリア「愛の哀しみ」では唯一のブラーヴァを誘い、第3幕の「楽しい思い出はどこへ」では、眠くなる聴衆を一気に覚醒させるほどだった。しかしアルマヴィーヴァ伯爵のレヴェンテ・モルナールは、この役を演技の上では楽しませたようにも感じられたが、歌唱の点では平均点以上の出来栄えとなったとは思えない。少なくともそのように感じでしまう。
ミス・キャストはケルビーノのレナ・ベルキナにも言える。このおませなズボン役は、もっと大胆に歌を表現して欲しかった。2つの重要なアリアである第1幕の「自分で自分がわからない」と第2幕の「恋とはどんなものかしら」は、まったく共感が感じられる歌い方ではなく、いずれも完全な失望に終わると、いったい何を評価すればいいのだろう。フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」と合わせて大きな不満となった前半では、フィナーレで畳み込むような快速の演技も、何か台本を追っているだけのように感じられた。
それに比べると竹本節子のマルツェリーナは悪くなかった。いや3番目に良かった。彼女の相手であるバルトロの松井浩、バジリオを歌った大野光彦、さらにはバルバリーナの吉原圭子はみな好演していた。総じて伯爵夫人を除けば、外国人の出来が悪く、日本人の出来栄えがいい。こういうことならいっそ、オール・ジャパンでやってはどうかと思ってしまう。
指揮者のウルフ・シルマーは私が90年代の前半にNHK交響楽団を指揮したコンサートが大変感動的で、今回非常に期待した。その通り、この演出が救われない大失敗になることを辛うじて防いだ。上演後、短いカーテンコールが終わると、足早に会場を出た。期待が高すぎたのがいけなかったのか、もうしばらくオペラを見る気がしなくなってしまった。こういうこともあるのだろうと、自分に言い聞かせた。
(追記)
しばらくたって、東フィルの演奏はそんなに良かったのか、と思うようになった。序曲の最初から音はやや抑え気味であった。これは歌手の声とのバランスを考慮してのものかと思った。今でもそう思っているが、そのことでモーツァルトの音楽がいつも鳴り響いている感じに浸ることはできなかった。そういう意味で結果的に、満足の行く出来ではなかったとも思う。
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