
紀元前、エルサレムにおいてユダヤ教の体制を批判したイエス・キリストは、当時支配をしていたローマ帝国の権限において処刑させられた(キリストの磔刑)。 十字架に張り付けられ、長い間さらし者にされると言う極刑は残酷である。だがイエスはすべての人々の罪を自らが被ることにより、人々を救済した。この時語ったとされる7つの言葉は、数々の福音書によって後世に伝えられた。ハイドンが作曲したのは、この福音書に基づく七つの言葉を管弦楽で表現したもので、スペイン南部の町、カディスにある教会の依頼で作曲された。1786年、ハイドン54歳の時であり、当時仕えていたエステルハージ家以外からの作曲依頼も舞い込むようになっていた頃である。交響曲で言えば「パリ交響曲」の頃。
曲は以下の部分から構成されている。
序章 Maestoso ed adagio
第1ソナタ 「父よ 彼らの罪を赦したまえ」 Largo
第2ソナタ 「おまえは今日 私と共に楽園にいるだろう」 Grave e cantabile
第3ソナタ 「女よ これがあなたの息子です」 Grave
第4ソナタ 「わが神よ 何故私を見捨て給うか」 Largo
第5ソナタ 「私は渇く」 Adagio
第6ソナタ 「すべてが果たされた」 Lento
第7ソナタ 「父よ 私霊をその御手に委ねます」 Largo
地震 Presto e con tutta la forza
各パートはその名の通り、ソナタ形式である。すなわち主題が提示され、展開された後、再現される。ハイドンがこの形式を確立した直後のことであり、そのために忠実にその法則に従っており非常にわかりやすい。すべてがアダージョやラルゴで、交響曲の第2楽章を延々と聞き続ける忍耐力が必要だが、ここには「時計」の洒落っ気も「驚愕」のユーモアも存在しない。ところがいい演奏で聞くと、音楽は静かに聞くものの体中に入り込んでいく。蒸留水が岩に染み込むように。静謐でありながら厳粛な緊張感を失わない格調の高さは、音楽に奉仕するかのような慎ましさと真面目さが必要である。
そう感じるのはムーティの指揮するベルリン・フィルの弦楽器が、真摯にメロディーを奏しているからであり、その様子は序章の冒頭からわかるのだ。 「飾らない」という表現がピッタリの演奏は、ベルリン・フィルの最高のテクニックをベースにしてなお、謙虚である。ムーティの演奏するハイドンが、実はこんな表現だったのかと思った。そしてこれは実にこの曲の意味を引き出していると思った。
こういう音楽を聞くと、クラシック音楽の多くが芸術のために書かれたのではなく(私はこういう表現が嫌いだが)、宗教的行事のために書かれたものであることがわかる。同じハイドンでも、「ザロモン・セット」のように聴衆の人気を意識した音楽では、緩徐楽章だけを並べるようなものは書かなかった。この曲は、聖金曜日の教会での修養のために書かれたのであり、そういう音楽を他の音楽と同列に扱うことはできないだろう。現代のコンサートは、入場料収入を必要とする興行であり、極論すれば、このような曲をコンサートで上演するのは、誤解を招きかねない勇気のいる行動である。
けれどもわが国では教会で音楽を聞く機会など、そうあるものではない。ハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を実演で聞く機会は、コンサートで取り上げられなければ、おそらく耳にすることはない。あるいはまた数千円の対価を支払うことで、録音されたこの曲の媒体を自分のものにすることができるのは幸福なことだ。そしてその価値は十分にある。ここで聞くことのできるハイドンのメロディーは、この大作曲家が残したアダージョの中でも屈指の名曲の数々である。だから私は、携帯音楽プレーヤーにこの演奏を転送して、朝の散歩の時にも聞くことができるようにしている
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