2017年4月30日日曜日

マーラー:交響曲第6番イ短調(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

いきなり軍隊の行進を思わせるリズムに合わせ、物凄い形相で指揮をするレナード・バーンスタインの映像に一気に釘付けとなった。その後80分にも及ぶ全曲を、興奮と集中力を持って聞き続けたのは1回だけではない。学友協会大ホールに所狭しとずらりならんだ、見たこともない打楽器群の中に、何と巨大な鉄槌までもがあって、それが幾度か振り落とされる。その異様なまでの光景に、私は固唾を飲んだ。こんな音楽があるのか!高校生の時だった。

次にこの曲を聞いたのはCDによってであった。90年代のはじめ、私が小遣いを貯めて買った一枚はジョージ・セルによる演奏(クリーヴランド管弦楽団)。なぜかと言えば、この長い曲が1枚のCDに納まるのは、当時これしかなかったからだ。 しかも録音が1967年と古く、廉価版としての発売だった。この演奏は、あの頑固なまで一徹なセルが、なりふり構わず棒を振る様子が見えてくるような熱演である。まだマーラーの演奏が珍しかった時代。今聞いても演奏は素晴らしいが、時代的な古さは否めず、しかも録音が上出来とは言い難い。

マーラーの交響曲は、旺盛な創造力が発揮されるに従い難解なものとなり、特に第6番から第8番は規模が大きく、そして長い。何か印象的なフレーズが心に残るわけでもないこれらの曲を、一通り聞き続けるだけの持久力が試される。私はコンサートで聞かないと、なかなかその良さはわからないと思っていた。

その機会は1996年のアメリカ滞在中に訪れた。ジェームズ・レヴァインがメトロポリタン歌劇場のオーケストラを指揮して、通常の管弦楽コンサートを年に数回開くうちの1回に、この曲を取り上げたのだ。しかもコンサートの前半はブリン・ターフェルを迎えての「亡き子を偲ぶ歌」。公演当日の夕方、カーネギー・ホールのボックス・オフィスに並ぼうとすると、ジーンズ姿のターフェルが現れて誰かと話していた光景を覚えている。大編成のプロ集団を大胆に指揮するレヴァインの姿に見とれているうちに、あっという間のコンサートが終了した。

良く知られている副題は「悲劇的」となっているが、私がこの演奏を聞いた時には、あまりに健康的であることに違和感を覚えた。考えてみるとこの作品は、マーラーの作曲家としての絶頂期に書かれている。アルマとの遅い結婚の後、夏の別荘に籠って次々と大作を作曲していく頃である。だとすればこのタイトルは、マーラー流のアイロニーと言ってもいいのではないか、とさえ思えてくる。調性が短調であることに加え、しばしば聞き手の予定調和を裏切るフレーズなどに、そのようなものが感じられる。けれどもこの作品は、マーラーがひときわ愛した個人的な作品だとされている。マーラーとアルマはピアノでフレーズを弾きながら、涙を流したとある。マーラーの人生観がそのままストレートに表現されているらしい。イ短調という飾り気のない調整は、常に陰鬱である。

通常、第2楽章はスケルツォ、第3楽章はアンダンテ・モデラートとなっているが、手元にあるアバドの演奏(ベルリン・フィル)は入れ替わっている。作曲家自身がどちらを先にするか、迷っていたようだ。だが私は第4楽章が非常に長いので、第3楽章を緩徐楽章とする方がしっくりくる。いずれにせよ、これら曲を聞くと夜の都会を連想する。もちろんここでも放牧された牛が通るときの鈴の音(カウベル)が、何か特異な雰囲気を醸し出している。マーラーの交響曲には、それまで聞いたことのない音色に出会いことが多い。この曲の第2楽章の冒頭などは、いまでこそ戦争映画の音楽のようではあるのだが、20世紀の初頭にコンサートホールで聞いた聴衆には、どのように響いたのであろうか。

バーンスタインのビデオ以外の演奏は、どうにも私にはしっくりこない状況が続いていた。これだけ長い曲を聞くには、緊張感の持続も大変で、歩きながら聞いたりしているといつの間にか他のことを考えてしまう。考えあぐねた挙句、やはり原点に戻ることにした。今では希少価値のあるCD屋へ出かけ、バーンスタインのCDを購入することにしたのである。

CDで聞くバーンスタインの第6番は、すこぶる素晴らしい。演奏はウィーン・フィルで、あのビデオ版全集で録画された1976年から12年後の1988年9月の録音である。バーンスタインが亡くなる2年前、マーラー演奏に生涯を捧げたバーンスタインの、最後の演奏ということになる。ここで聞く第6番は、まさに壮絶ともいえる超名演だ。しかもドイツ・グラモフォンの録音が秀逸で、あらゆる音がクリアーに、しかも重なりを持って聞こえる。迫力を捉えて離さない。まるでバーンスタインの息遣いが聞こえてきそうな演奏である。

この演奏を聞くと、マーラーというのはウィーン・フィルでないと表現できないものがあるのではないだろうか、などと思ってしまう。弦楽器の音色などは、これがマーラーの音だと主張している。それは聞き手の全身を覆い、耳に強烈な印象を残す。説得力が違うと思う。特に第3楽章(アンダンテ)の深い息遣いは、このコンビの白眉である。

そして終楽章!30分以上に及ぶこの曲をバーンスタインは精魂を込めて指揮をする。冒頭の深く息を吸い込んだゆるやかなメロディーから、爆発的な瞬間を経て激流の如く流れ出る音楽は、何と形容したらよいのか。ウィーン・フィルが何年かに一度見せるような熱い演奏は、その長さを感じさせない。幾度かの鉄槌がマーラーに加えられ(「運命の打撃」)、絶頂期にあった彼の心に歯止めをかける。まるで悪い命運を自ら招くように、マーラーの心の傷は深く、そしてねじ曲げられている。鞭に打たれようと、ハンマーに打たれようと何度も前進しながら、徐々に弱々しくなっていく音楽は「最後まで戦うことをやめず」、とうとう最後に一瞬、強烈な発作を起こしてから、死ぬ。

「この作品が聴き手にもたらす浄化(カタルシス)の効果は、ギリシャ悲劇やシェイクスピアの四大悲劇のそれと同じである。おそらく死の恐怖を身近に感じるような人間には、こんな作品は書けなかっただろう。生命力の絶頂にある壮年期の人間にだけ書ける曲である。」(「マーラー」(村井翔、音楽之友社より)

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