2017年4月16日日曜日

NHK交響楽団第1858回定期公演(2017年4月15日、NHKホール)

20世紀オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネムが「カプリッチョ」を作曲したのは、丁度マーラーの「巨人」が生まれた約半世紀後のことである。二人の間に音楽的な関係があるのかはわからないが、この二つの作品に共通するのは、30歳前後の作品ということくらいだろうか。一方メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調は、彼が30歳の時に作曲にとりかかり、6年の歳月をかけて完成された作品である。これは「巨人」からさかのぼること約半世紀前の、1844年のことであると解説書には記載されている。

これら3つの作品を演奏するNHK交響楽団の定期公演に出かけた。N響の定期を聞くのは1年ぶり。指揮者はイタリア人のファビオ・ルイージ、ヴァイオリン独奏はニコライ・ズナイダー。人気のある有名曲を並べただけあってか、NHKホールの3階席隅まで埋まる盛況ぶりは、久しぶりのような気がする。もっともヤルヴィが指揮するマーラーなどは、すこぶる売れ行がよさそうである。そのヤルヴィの「巨人」を1年以上前に聞き、(このときは前から2列目という席だったが)まるでヨーロッパのオーケストラの音がしたのに驚いた。もちろん演奏は超名演だったと記憶している。

アイネムの「カプリッチョ」は10分あまりの擬古典的な作品であり、あまり現代的な雰囲気は感じられない。一貫してリズム感が印象を残す親しみやすそうな作品で好感を持ったが、私のアイネム体験は実のところこれが最初であり、これ以上のことはよくわからない。ルイージは音楽を起用に、そしてスタイリッシュに指揮するが、聞きどころがぼやける傾向があり陰影に乏しい。

「メンコン」は学校の音楽鑑賞の教材にも使われる超有名曲だが、にもかかわらず実演で聞くのは私の人生でこれがたった2回目である。録音でこれまでのどれほど聞いたか知れない曲も、こうやって実演で聞くと、それまで何を聞いていたんだろうと思う印象的な部分が少なからずあって少々恥ずかしく、そして残念に思う。いや曲が持つ奥深さに触れたというべきか。

第1楽章冒頭から終楽章のコーダまで、切れ目なしで弾き続けるのは大変なことだと思うが、ズナイダーの音色は極めて美しく安定しており、やや小ぶりな作品も耳を澄ませて聞けば、3階席でもその精緻さは感じ取ることができる。ルイージの丁寧な指揮に乗ってなめらかに音が流れてゆく。軽やかだが、軽くはない。この絶妙さがメンデルスゾーンの音楽には重要なのかも知れない。

いつもCDなどで聞き流してしまう第1楽章も、特にカデンツァの後などはっとするような部分があったが、第2楽章に至ってはツボを心得たフレーズなどが次々と現れて、しばし切ない気分にさえなったことを付け加えておきたい。この楽章のフレーズはどこか懐かしく、そしてフレッシュな甘酸っぱさが漂う。音楽は演奏の仕方でこうも印象が違うのか、と思うのもこの第2楽章ではないだろうか。特に、後半の深い抒情性は筆舌に尽くし難い。そして、いつもよりとても長く感じた幸福な時間だった。熱心な拍手に応えてズナイダーは、バッハの「サラバンド」をアンコールした。その音楽に静かに耳を傾けながら、一度ベートーヴェンを聞いてみたいと思った。

3月が別れの月だとすれば、4月は出会い、そして出発の月である。春聞くのに相応しい交響曲第1番は、作曲者自身の指揮によりブダペストで初演された。この作品も、CDなどで何度聞いてきたかわからないのだが、実演で聞くとまったく違った曲に聞こえてくる。おそらくは録音や録画で接するには、私の持つ再生装置が貧弱である上に、再生環境がコンサートホールで聞くときとは比べ物にならないくらいに低質なのだろうと思う。それに、いつ中断されるかわからない家族との共同生活、窓を開けるとたちまち混じる高速道路の騒音などにも原因がある。とりわけマーラーとブルックナーは、実演に限ると思っている。どんな細かいフレーズにも気を配りながら、丁寧に指揮者がタクトを振ると、管楽器が、弦楽アンサンブルが、大きくうねったりはじけたり、その様は緊張感と興奮の連続である。これが長い時間経過を伴いながら物語のように進行し、宇宙的な広がりを見せる終楽章にいたっては、観客と演奏者が一体となった、一期一会の神秘的とも言えるような瞬間を体験することも少なくない。

さて今回のルイージによる「巨人」もまた、聞いていたその時にはまさに、そのような連続であったと思えるのは確かだ。私は、過去にルイージという指揮者を聞くときいつも、重要なフレーズがいともあっさりと、時には練習不足のような印象を伴って流れてしまう残念さを感じることがしばしばで、実のところあまり好きになれなかった。ところが今回の「巨人」は、そのような感じたのは一部であって、むしろすべての楽章で、特に各楽章の中間部において、表情を伴った細部の見事さを感じる取ることができたからだ。

第1楽章においてすでに完成度は高く、時にまだ、まとまりきらない演奏会が多いことも思えば、ヤルヴィで聞いた時のN響よりも良かったかも知れないと思われた。これで乗れると思ったのだろう。第2楽章の主題は大変力のこもった演奏で、特に低弦アンサンブルの凄みは手に汗を握るものだった。このような迫力満点の第2楽章を、1階席の真ん中で聞くとどんなに素晴らしかったかと思う。その第2楽章のレントラー風中間部、第3楽章の、懐かしい過去を回想するような瞬間・・・ここは全体の白眉である。ここをいい演奏で聞くと、私は涙が出そうになるが、それはCDでは起こらない。

壮大な終楽章の、長い時間を伴う大空間は、すでに交響曲第1番でマーラーの作風が確立されていたことを如実に表している。うねるような弦楽器や爆発的なフォルティッシモに混じって、壊れてしまいそうなくらいに繊細なメロディー。終楽章のマーラーはいつ聞いても感動的である。今回のルイージの演奏で私は、いくつかの再発見をしたことは先に述べた。第4楽章のひとつひとつの部分が、丁寧に、そして印象深く演奏された。ここの楽章を演奏する十分に練習されたオーケストラは、意気込みも集中力も十分で、満場の拍手とブラボーはひときは大きく会場を揺さぶった。

ようやく訪れた東京の春は、いきなり初夏を思わせる陽気に、渋谷へと向かう足取りもいつになく軽やかである。おそらく会場を後にした多くの人々が、同じように感じた演奏会だったと思う。この模様はテレビ収録されていたので、数か月後にはオンエアされるだろう。その時を楽しみにしていたいと思う。そして次回からは、できればもう少しいい席で聞いてみたい。おそらくヤルヴィの時以上の名演だったにもかかわらず、音が拡散してしまい、遠くで音楽が鳴っているように感じるNHKホールの悪い点が目立ったからだ。もっともその違いはテレビではわからない。テレビは実演には遠く及ばないと思うからである。

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