
楽劇「神々の黄昏」には、そのようなオーケストラを聞きどころとする部分が多い。有名な「ジークフリートのラインへの旅」(序幕)、あるいは「ジークフリートの葬送行進曲」(第3幕)などである。劇場でこれらの音楽に耳を澄ませるとき、通常はゆっくり舞台が転回し、最近なら抽象的なオブジェクトが様々な色の光に反射して幻想的な印象をもたらす。聞き手はそれらを眺めながら、長く複雑なストーリーを整理し、一息入れつつ場面の転換を想像する。時間が空間となり空間が時間となる。切れ目のない音楽は、様々な動機が現れたり消えたりしながら、徐々に盛り上がり、そして静かに聞き手を次の場面に誘導するのだ。
このようなワーグナー的時間感覚は、見る者の生理感覚も考慮したものだろう。その時にオーケストラの演者や指揮者は目障りだと考えたのだろうか。だとしたら「演奏会形式」と言われる形態でのワーグナー作品の上演は、作曲家の意図を半分無視した暴挙であるのかも知れない。
「東京・春・音楽祭」と名付けられた、上野公園を舞台とする音楽祭の目玉であるワーグナー・シリーズにおいて、毎年1作品ずつ上演されてきた「ニーベルングの指環」も、とうとう最終回となった。楽劇「神々の黄昏」がついに上演されることとなったのである。
思えば4年前、私は入院中の病室で「ラインの黄金」を何としても見たいと思った。3月末に脳卒中の疑いで緊急入院させられ、さらには頭部に穴をあけて組織の一部を生検するための緊急手術まで受けた。結果はシロ。だがすぐに退院できるわけではない。退院できたとしても電車に乗って上野まで行き、何時間もの間座っていることができるかと心配した。買っていたチケットは弟に譲るつもりでいたが、めでたく前日に退院。当日券もあるというので結局、何かあっても大丈夫なように、二人で出かけた。この時に見た「ラインの黄金」は、このような経過もあって大変素晴らしく心に残った。音楽に身を浸すことが、生きている上でこれ以上ない喜びに感じられた。
翌年の「ワルキューレ」も弟と出かけた。この上演は、今やワーグナーとして第一級のものと確信した。続く「ジークフリート」が大名演であったことはすでに書いた。ジークフリートを歌ったアンドレアス・シャーガーは、圧倒的な歌唱力で聴衆を驚かせた。こうなったら最後まで見るしかない。昨年秋にチケットが売り出されると、私は迷わずS席を買い求めた。そして待ちに待った4月1日が訪れた。開花宣言はされたものの、まだまだ肌寒い毎日が続く東京では、桜もほとんど咲いてはいない。さらに前日からはしとしとと冷たい雨が降り、街もどこか静かである。

二人の交代は幾度となくアナウンスされ、さらにはリハーサル中の交代であったこと、代役の二人は急きょ来日し、練習もままならないこと(とははっきり言わないが)までが告げられた。嫌な予感がした。オーケストラはヨーロッパ公演を終えたばかりのNHK交響楽団で、ゲスト・コンサートマスターにライナー・キュッヘル氏であることは従来通りだが、今回は金管楽器を中心にミスが目立ったように思う。
代役の二人は対照的な姿勢でこの難局に挑んだかに見える。ブリュンヒルデのティームは、かねてより何度かこの役をこなしており、ここ一番は自分が活躍せねばと思ったのかも知れない。登場のシーンが多く、そして最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に至っては長々と声を張り上げねばならない。彼女は必死でこの役を演じ切り、時に激しく強弱をつけるあたりは、ヒステリックでやや自暴自棄になったブリュンヒルデの人間臭い側面があぶりだされ、特に第2幕のドラマチックなシーンで威力を発揮した。

よく見ると今年の「東京・春・音楽祭」では、何と昨年ジークフリートを歌って圧倒的な成功だったアンドレアス・シャーガーが3月にリサイタルを開いているではないか。どうして彼に代われなかったのかと思った。
演奏が最初からぎこちなく、それは緊張のせいかもしれなかった。指揮者のヤノフスキは職人的手さばきで、一気に音楽を集中させようとするが、それに合わせるいつものややヘンテコなアニメーションも、雲やら川やら、そして火に包まれた岩山を映し出す。実演はともかく何度かビデオで接している私としては、やはりジークフリートの死のシーンでは、血が流れてライン川が赤く染まるような状況を想像するしかない。アニメーションはこういう時こそ威力を発揮してほしいのに、抽象的なシーンが続くかと思えば、ギービヒ家の館が非常にリアルにそびえ、なんとなく興醒めである。「ラインの黄金」から一貫して不満の残る画像は、音楽を妨げないようにと配慮した結果かもしれないのだが。
最大の成功はハーゲンを歌ったアイン・アンガーの太く力強い歌声と、そして第1幕の姉妹喧嘩のシーンで圧巻の集中力だったヴァルトラウテ役のエリーザベト・クールマンであった。リリカルな歌声が魅力的だったグート・ルーネ役のレジーネ・ハングラーも面白かったし、マルクス・アイヒェの歌声はグンターの姑息で嫉妬深い役に合っていた。なお、アルベリヒはこのシリーズでお馴染みのトマス・コニエチュニーが安定した仕上がり。
総合的に見れば第1幕の後半は最高に素晴らしく、この長い音楽の魅力を初めて身を乗り出しながら味わったし、第2幕の東京オペラ・シンガーズを加えた舞台は、集中力を絶やすことがなく圧倒的であった。第2幕の幕切れで盛大なブラボーが飛ぶかと思えば、やや戸惑った拍手だったにもかかわらず、終幕の最後で照明がすべて消されたときに、早くも拍手が始まった。第2幕こそ盛大な拍手を、最終幕ではしばしの余韻を、と思っていた私は少し戸惑うことになったが、コンサートというのは難しいものだ。何千人もの人々が見ているのだから。
「ジークフリートの葬送行進曲」ではオーケストラが見事に決まったし、そこをクライマックスとする前後のすべての音楽は、これまで登場したライトモチーフの連続である。とうとう「指環」もここまで来たかと思う。そして最後に一人ブリュンヒルデが歌う終末のシーンは、やはり圧巻であった。舞台から歌手が消え、残ったオーケストラが真っ赤に照らされる中、ヴァルハル城は火の中に崩れ去り、そしてラインの川底へと沈んでいった。世界の終わりのこのシーン、音楽は圧巻なのだけれど、どうして舞台がないのかなあ。だがこれは贅沢というものだろう。NHK交響楽団は今回も素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれたが、東京文化会館の音響がややデッドなのか、それともヤノフスキのラディカルな音作りのためなのか、室内楽的な精緻さはあるものの、音楽が少し小さく感じられた。それもまた、あまりに欲張った話だと思うのだが。
0 件のコメント:
コメントを投稿