パーヴォ・ヤルヴィは今シーズンしめくくりの定期公演で、圧倒的なシューベルトの演奏を聞かせ、それは前人未到の領域にあったと思う。デッドヒートを繰り広げるマラソンを見ているような、長い興奮の時間。この間、聴衆は一時も目を離すことなく、舞台に釘付けであった。第1楽章の冒頭から、オーケストラをドライブするその身振りの、どんな細やかな部分にさえ敏感に反応するオーケストラは、一糸乱れることもなく、この長大なシンフォニーを一気果敢に演奏した。
スポーティーでアグレッシブなシューベルト。それはこの有名な曲を聞いてシューベルトの音楽を久しぶりに思い出そうとする安易な聞き手を頭から裏切る大胆なものだ。だからこそこの境地は、他の指揮者がまだ成し遂げていない領域にも達する野心的なものだ。そうとわかる聴衆は熱狂的に拍手を送り、そうでない聴衆を翻弄、混乱させた。だが驚くべきはこのような世界トップクラスの次元での勝負を可能とさせるN響の技術的水準の高さである。もちろんそれは、長年の数々の指揮者を経て到達したものであろう。そして、さらにそれを推し進めたのは、首席指揮者ヤルヴィの功績と言っていいと思う。もう四半世紀にわたってN響の公演を聞き続けてきたが、それだけは自信を持って言えるのである。
圧巻のシューベルトの演奏に入る前に、後になっては遠く霞んでしまった前半のプログラム、シューマンの歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲と、同じくシューマンのチェロ協奏曲イ短調(独奏はターニャ・テツラフ)についても触れておく必要がある。
歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲は私も初めて聞く曲だったが、メリハリの効いた演奏であった。続くチェロ協奏曲は、この目立たない曲を綺麗に、そして颯爽と弾きこなしたのが印象的であった。音色の美しさは比類がなく、3階席で聞いていても、無駄がないにもかかわらず決して細くはないチェロの音色が、自信を持って弾きこなされてゆく様子は、手に取るようにわかった。おそらくこれまでに聞いてきた独奏のチェリストの中で、私の印象はもっとも大きいものだった。できれば他の曲も聞いてみたい、そしてCDなどを買ってみたいとさえ思わせた。
アンコールにはJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」の冒頭が選ばれた。この誰もが知っている曲によってテツラフの演奏のスタイルを再確認した聞き手も多かったと思う。それは速く、そして流れるようでありながら、抑揚を適度に伴い、聞き手の心を瞬時にわしづかみにしてしまう現代的で、しかも美しいスタイルである。それは丁度、ヤルヴィの演奏に極めて似ている。音楽を一度紐解き、彼女なりに組み立てた結果、それまでにない大胆で新鮮な音楽が誕生する。
シューベルトへの期待は、前半のシューマンのややくすんだ、どちらかというと少し気分が乗らない雰囲気を見事に打ち消すところから始まった。時計の針は数十年バックする。シューマンをして「天国的に長い」と言わしめたのをあざ笑うかのように、「グレイト」と名付けられた交響曲をこんなにも挑戦的に演奏した音楽家がいただろうか。3階席で聞いていてもオーケストラの表情のどんなに些細な変化であっても、あるいは音の組合せが千変万化するすべてのタイミングにおける音色の変化・・・それは連続的であるというよりは離散的であり、写実的とも言っていい輪郭を伴う現代的でデジタル的変化・・・が手に取るように感じられた。
それでも冷静さを維持しながら確認したところでは、おそらくは第4楽章の第1主題を除いて、ほとんどの部分は反復された。第1楽章の第1主題は、これが反復されると一気にオーケストラはヤルヴィの楽器となった。第2楽章の木管楽器の溶け合いや組合せの変化は、まるで高速列車の車窓風景を追うように見事だったし、終楽章に至ってはまるでアクション映画のクライマックスを見るかのような興奮を覚えた。
第2楽章の後半で、音の重なりが頂点に達し、その途端しばし休止を迎えたあとに出てくる低弦の響きは、舞台の左手に配置された「ヤルヴィ・シフト」によって強調され、その時間は会場がこの音に聞き惚れて物音ひとつでない。第3楽章のトリオの場面は、この音楽がこんなに長かったのかと思わせる至福の時間。全体的に速い演奏ながら、それでもなおたっぷりとこの曲を堪能させてくれた。かつて聞いたどんな演奏とも違う。N響でもこれが3度目だが、最初のサヴァリッシュとの名演などと比較しても、そのスタイルは随分と異なる。演奏によって音楽がまだ新境地を示しうることの証明である。
オーケストラが指揮者と一体となり、ほとんど完璧なまでの熱演を繰り広げるヤルヴィとN響のシーンも、いまでは当たり前のような光景になっているのだろう。それにしてもその中では、極めて成功した部類に入るのではないか。3月のヨーロッパ公演では絶賛の嵐だったようで、その記事は今月の「フィルハーモニー」にも記載されている。そしてそんな演奏をここ東京で何度も見られるのは幸福である。生きていてよかったとさえ思った。次回は是非とも前の方で、できれば9月に再オープンするサントリー・ホールで、この組み合わせを聞いてみたい。そしてそれは、お金と時間さえ許せば可能なのである。梅雨の合間の暖かい風で興奮した頬を醒ましつつ、夜の公園通りを下って行った。
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