2018年7月23日月曜日

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」(2018年7月22日、東京文化会館・二期会公演)

長い間、ぜひ実演で見てみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいたウェーバーの歌劇「魔弾の射手」は、ドイツ国民的オペラとして重要な位置にある。民謡のように親しみやすい音楽は誰もが口ずさみたくなるほどであり、それゆえにか、おいそれとは上演されない演目でさえある。ドイツ人かよほどドイツに縁のある指揮者でなければ、この曲をレパートリーに加えることはないし、逆にドイツ人であれば、そう簡単に演奏してはならない代物だからである。

モーツァルトが確立したドイツ語圏におけるオペラは、やがてワーグナーによって大成されるが、その間の隔たりは大きい。この中継ぎともいうべき時代に、ウェーバーが位置している。いわゆるジングシュピールとしての歌芝居的要素を持つ点は「魔笛」などから引き継がれ、少しオカルト的で深い森の中に彷徨いこむドラマ的性格は、そのままワーグナーに受け継がれた、と一応音楽史的には説明されている。その間に社会は、自由を得た市民が音楽を楽しむ時代が到来し、これがすなわち大衆化した娯楽としてのオペラの最初(特にドイツ語圏での)という点も添えておく必要があるだろう。

そのような「魔弾の射手」を我が国で見ることは、実はなかなか困難であった。モーツァルトやワーグナーの作品なら、毎年どこかで必ず上演されているのに、「魔弾の射手」となると難しい。録音や録画された媒体としても、ドイツ系の大指揮者でないと、この作品を録音することはない。カイルベルト、クーベリック、それにクライバーくらいしか長年聞くことはできなかったし、ベームやカラヤンさえ正規録音は残っていない。最近ならアーノンクール、ティーレマンといったあたり。そのような中で、私はコリン・デイヴィスのCDを愛聴してきた。骨格のしっかりした、ドイツ人以上にドイツ的な演奏である(2種類あるが、古いドレスデン盤が良い)。

ところが今年、東京と兵庫で同時期に、まるで申し合わせたようにこの作品が上演されると知った時は、ちょっと困惑した。兵庫県に実家のある私は、隣の市である西宮で上演される佐渡裕指揮による上演も見てみたい。一方、東京在住者としては、二期会による4つの公演のどこかに行ければ、まずは「魔弾の射手」の聞き初めとなる。結局私は、実に公演の数日前に、東京文化会館で行われる二期会のプロダクション(演出:ペーター・コンヴィチュニー)を見ることに決めた。何週間も続く猛烈な暑さの中を、上野へと向かう。一連の最終公演のマチネである。

さて、長年数多くのCDで演奏を楽しんできた「魔弾の射手」を、実演で見るのは初めてである。それで、どこまでこの公演について書き記すだけのものを持ち合わせているか、相当あやしいことを覚悟のうえで、いくつかの感想を記しておきたい。私も読み取れなかった演出上の詳細な解釈(読み替え)については、他の人のブログが参考になるだろう。

まず、私が購入した一階席(向かって最も左手)は、今回の上演を見るうえで大きなハンディであったことを指摘しなければならない。これでS席は納得がいかない。なぜなら演出上重要な道具であるエレベータが左袖に配置され、おそらく会場の左側に座った約3割程度の客席からは見えなかったことだ。エレベータは7階まであり、これが魔法の弾丸の数を表す重要な意味を持っていた。さらに、いくつかの出演者のやり取りが、この舞台袖で行われたようで、隠者が終幕で名刺を交換し、ザミエルともども再度姿を現す、などといったこともよくわからなかった。

開き直って言えば、私の席からはコンヴィチュニー流の読み替えの「毒」がわかりづらく、そのことによってかえって、音楽をストレートに味わうことができたとさえ思う。私の席からは、読売日本交響楽団が演奏する、本当に素晴らしい音楽が、安定して聞こえて来たし、アルゼンチン生まれの若い優秀な指揮者アレホ・ペレスの表情もよく見て取れた。いわゆる古典的な舞台ではなく、むしろ簡素にして照明効果の美しい舞台は、ありきたりのドイツの風景を感じさせるような古めかしさがなく、そういう点で私は気に入った。満月の月、空高く飛ぶ鷹、火が燃えたり、灯が会場をも照らしたり、それに客席にいた隠者が時折みせる仕草などは、1階席で見るアドバンテージであった。

ただもっと詳しくわかってしまうと、今回の読み替えは賛否両論が渦巻く側面に直面することになっただろうし、もしかすると実演初心者の私などは、ちょっと抵抗感を持ったかもしれない。そのあたりの解釈の「不完全さ」によって、私は救われた。皮肉なことに、音楽主体でこの演奏を聞くことができた。

私はすべてを日本人が演じるオペラを見たのは初めてである。いつも出掛ける新国立劇場では、たいてい主役はみな外国人だし、かつて見た藤原歌劇団の「椿姫」もヴィオレッタとアルフレードのみがイタリア人だった。だから、今回のように、セリフのみが日本語で、歌はドイツ語(英語、日本語の字幕付き)というスタイルに、多少戸惑った。演技されて発せられる日本語は、わかりやすさのためであるとはいえ、やや大時代がかった演劇スタイルで、どうにも私は好きになれない。歌唱の時は字幕を追うが、会話になると字幕が出ない。急に舞台から聞こえる日本語が、学芸会のように聞こえ、しかもときどき聞き取りにくいのである。このことが上演のスムーズな進行にちょっとブレーキをかけていたのではあるまいか。

今回の二期会の公演は2組のキャストによって演じられ、私が見たのはそのうちの後半の組であった。まず良かったのはアガーテの北村さおり(ソプラノ)とカスパルの加藤宏隆(バス・バリトン)。北村の声は清楚で美しく、結婚式を前に希望と不安の入り混じる女性の役にぴったり。対照的に明るくて屈託のないエンヒェンを歌った熊田アルベルト彩乃(ソプラノ)も、そういう役作りを意識していたようで、なかなか好演だったと思う。

一方、主役のマックスを歌った小貫岩男(テノール)は大変綺麗な声の持ち主だが、ちょっとパワーが足りないところが惜しい。これで声に張りがあれば、ヘルデン・テノールとして及第点だったと思う。舞台最前列に座って花嫁に花束を投げた隠者の小鉄和広(バス)は、カスパルが打たれて幕が閉じかかったところで舞台にあがり、この劇がハッピー・エンドに終わらないといけないという素振りを見せる。台本役が登場し、再び幕が開くという仕掛けに会場は大笑いかと思ったが、静まり返っている。小貫の大変充実した声は、存在感があり上手かったが、興行主としての成金ビジネスマン風のいで立ちで登場する今回の演出では、そういう歌唱の側面の評価をそぎ落としてしまう。やはり演出というのは、大きな要素である。

演出という観点で言えば、今回の目玉は何といっても、元宝塚女優大和悠河をザミエルに起用したことだろう。決して歌わないが、何度も舞台に登場し、男とも女ともつかない美人の悪魔を、タカラヅカ風にやらせようとしたのも、ブックレットによれば演出家の仕業だったようだ。だがこの点に関して言えば、私は今回の演出にフィットしていて面白かったと思う。会場にいつになく大勢の女性ファンが詰めかけ、花束が数多く並んでいる。十着以上も衣装を交換しながら、様々な局面で彼女は登場した(らしい)。私は中でも「狩人の合唱」の前に幕前で歌詞を朗読したとき、その演技に釘付けられた。

阪急沿線で育った私は、小学校1年生のときに見た人生最初で最後のタカラヅカ以来、どういう女優がどういうミュージカルを歌っているのかまったく興味もなかったが、彼女はマリア・カラスが好きでオペラ通になり、本も出版しているらしい。それで白羽の矢が立った彼女は今回の出演を大変嬉しく思い、そしてその期待通りに、存在感がありながら流れに見事にマッチした演技を披露したと思う。その振る舞いは節度と品があった。なお、もう一人の悪魔が舞台に登場し、ヴィオラを奏でながら踊る。その役はハンブルク歌劇場首席ヴィオラ奏者で日系のナオミ・ザイラーという人で、彼女の演技も面白い。

他の役についても記しておこう。オットカル公爵は薮内俊弥(バリトン)、クーノーは伊藤純(バス)、キリアンに杉浦隆大(バリトン)。合唱は二期会合唱団。

CDで聞く「魔弾の射手」は、次から次へと楽しい歌が登場し、それだけで随分この曲を知っていると思っていた。ところが何年か前、映画仕立ての作品を見たときには、狼谷のシーンなどホラー映画のように怖くて、この曲をCDでのみ聞いているだけではわからない面白さがあった。今回、斬新な読み替え演出で観る「魔弾の射手」は、そのどちらとも異なる側面を私に見せてくれたことは確かである。そういう新しさがないと、この作品の上演は評判になるようなものにはならないだろうと思う。だが、そういう冷静な判断ができたのは、一定水準の歌唱と演技、それに十分に貫禄のあるオーケストラの引き締まった演奏があったからだろう、と思う。

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