2020年1月14日火曜日

第1930回NHK交響楽団定期公演(2020年1月12日NHKホール、指揮:クリストフ・エッシェンバッハ)

今年最初のコンサートは、クリストフ・エッシェンバッハの指揮するN響定期である。曲目はマーラーの「復活」。「復活」とはキリストの復活のことだが、マーラーの「復活」は、かつてのベートーヴェンの「第九」がそうであったように、宗教の枠を超えた意味を持っている。終楽章に至って到達する「生きるために死ぬ」という死生観は、悲観的というよりは肯定的で、高らかに生への賛歌が歌われる合唱入りの90分にも及ぶ野心作である。ハンブルクでハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、丸で雷に打たれたかのような啓示を得て作曲が進められたという逸話はつとに有名である。

一体自分は、どこからきてどこへ向かうのか。先行きが見えない現代社会において、この曲が与える感銘は、今もって新鮮かつ圧倒的である。何人もの人が、この曲を聞いて音楽家になろうと思ったと話している。

私も初めてこの曲を実演で聞いて心を揺さぶられた一人だ。1996年2月のニューヨークでウィーン・フィルの公演があった時、カーネギーホールの2階右脇からオーケストラを見下ろすバルコニー席でこの曲を聞いた。指揮は小澤征爾だった。直前に作曲家、武満徹が亡くなったこともあり、バッハの「G線上のアリア」を拍手なしで演奏した直後だった。第1楽章冒頭の弦の轟きと、その後に続くトゥッティに圧倒された。その後は舞台に釘付けとなったが、この主題が再現されると、ふたたび心を打ちぬかれた。

第2楽章の丸で天国にいるようなアンダンテは深い愛情に満ちたもので、小澤のなみなみならぬ集中力が、オーケストラを丸でひとつの楽器のように操り、珍しく静まり返ったニューヨークの聴衆の中で、ウィーン・フィルの弦楽器を陶酔させるほどに美しく響かせる雄弁なものだった。

ところがこの時の演奏の記憶は、そのあとの3つの楽章についてはほとんど残っていない。圧倒的な規模に私の心がついて行かれなかったからなのだろう。最後まで続く感銘をもう一度経験したくて、小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮してこの曲を演奏した時、私は東京文化会館の3階席を買って出かけた。この時の演奏はライブ収録されてCDでも売り出され、ディスク大賞にも輝いたから、非常な名演だったのだろうと思う。私はここでやっと第3楽章の静かに流れて行くスケルツォ(それは「子供の不思議な角笛」の一節でもある)の特徴あるリズムに触れ、それに続くアルトの歌「原光」(この時のソロはナタリー・シュトゥッツマン)が、会場を金縛りにするほど見事で身の毛が立つほどの硬直した感動を覚えたのを記憶している。

これで第4楽章までのこの曲を、何とか知り得た感じがしたのだが、「復活」は第5楽章に全体の半分近くの時間を要する曲で、ここに最大のエネルギーが注がれている。合唱団は第1楽章から舞台奥にスタンバイしているが、最後の何度も押し寄せる爆発的なエネルギーと、繊細で心の奥を覗くような部分とが交互に現れるマーラーの世界が存分に味わえる。バンダとの掛け合い、二人の独唱、オルガンも加わったその規模は、会場を超えて鳴り響くかの如くである。バーンスタインがエジンバラで振ったロンドン響との記念碑的映像では、教会の天井などが何度も映し出されるのが印象的だった。

エッシェンバッハという指揮者は、このバーンスタイン系に属する指揮者だと思う。ヤルヴィやルイージのように、きっちりとメリハリをつけて職人的に演奏する指揮者ではなく、むしろ情念が音楽を語ることへ重心が置かれている。彼のピアノでもそうなのだが、それは外面的な美しさなどは期待できない。オーケストラにあっては、個々のプレイヤーが持つ音楽への理解が、総合的な力によって自発的に統合され表現されるのを助けるといった感じだ。だから、演奏するのはなかなか大変だろうと思うし、今回のような1回限りの客演では、なかなかその真価が表れにくいのではないか。

前置きが長くなったが、私は今回のN響の演奏で、再びこの曲に新たな発見を数多くしたと言って良い。一階席前方に着席した私はオーケストラの音をおそらくは理想的な形で把握することができた。後半、とりわけ第4楽章の冒頭で藤村美穂子が「赤い小さな薔薇よ」と歌い始めると会場の空気が一変した。その瞬間から私は、時にこみ上げてくるものをこらえきれなった。第5楽章で繰り広げられる新国立劇場合唱団の深い祈りは言うに及ばず、代役だったソプラノのマリソル・モルタルヴォも悪くはなかったと思う。前方の席で聞くと時折舞台裏から響くバンダと、舞台上の楽器が重なる微妙なバランスも手に取るようにわかった。

いつのまにか80歳にもなるエッシェンバッハは、決して派手な指揮でもなければオーケストラを煽るようなこともしない。けれども時にテンポをぐっと落とし、オーケストラの自発的な曲への理解が、総体として奏でるハーモニーに寄り添う。楽団員に芸術家としての素養を問う真剣な作業でもあるかのようだ。前半の楽章を聞く限り、これはやはり短期間に成し遂げるにはいささか不十分な結果だったと思わないこともない。弦楽器、とりわけヴァイオリンの音が、いつになく貧弱に聞こえたのは気のせいだったのだろうか。上手く弾いているのだが、共感が伝わってこない。

エッシェンバッハが求めるのは、深いところでの音楽の理解と、それを個々人が表現することによって成し遂げられる総体的な情念の昇華。それがたとえ失敗し、暗く、陰鬱なものであっても、それはそれでかまわない、と言う冷徹な諦観があるようにも思えてくる。ただ、かつてラン・ランを迎えたパリ管とのベートーヴェンでは、そういう意味で高度な音楽的結実が見て取れた。第1協奏曲の第2楽章が、これほど美しいと思ったことは、先にも後にもないのだ。

久しぶりにゆったりとした「復活」を聞いた気がした。エッシェンバッハとマーラーが、どこかで融合する奇跡を期待したが、残念ながらそういうことはなく安全運転に終始したと言って良い。第5楽章において、満員にも関わらず静寂を保つ中で、オーボエが、フルートが、そしてメゾ・ソプラノが、丸でそこだけに光を浴びている風景のように心の内面を照らした。大きなブラボーが繰り返される中、私はまた「復活」の演奏を聞き終えて、さらにまたマーラーの音楽が聞きたくなる思いだった。

帰宅してメールを読むと、早くも来シーズンの演目が速報されてきた。マーラーはヤルヴィとの第3番がある。その前に、今シーズンの最後にはケント・ナガノによる第9番が控えている。今年も楽しみなコンサートが目白押しである。

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