ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲の冒頭が鳴り響いた時、いつもとは違う一気呵成のN響の響きに驚いた。まるで一筆書きのような引き締まった演奏は、「英雄の生涯」の最後まで続いた。ファビオ・ルイージとN響の相性は大層良好なように思われた。演奏が終わった時の楽団の表情が、それを表していたように思う。ソヒエフとルイージは、現在N響に客演する指揮者の中では、群を抜いていい演奏になる確率が高いような気がした。
ルイージが客演したのは1月の定期公演のうち、サントリーホールで行われるB定期のみである。多忙な指揮者だからだろう。だがその演目は注目に値するものだった。ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲を先頭に、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノはクリスティーネ・オポライス)、そして交響詩「英雄の生涯」である。これらの曲目のいついては、ブックレットに掲載された岡田暁生氏の解説が興味深い。シュトラウスが得意とした「1オクターヴ以上の音域を一気に駆け上がるような電光石火の主題、ウェーバーにも頻繁に見られるものだ」というのである。
ただ実際のプログラムでは、シュトラウスの最後の作品である「4つの最後の歌」が前半に置かれていた。ここでN響との初共演となるオポライスは、プッチーニを得意とするイメージがあるラトビア生まれの美貌のソプラノ歌手である。彼女を生で聞いてみたいと思った客も多かったに違いない。私もまたその一人だったが、彼女が歌ったシュトラウスの晩年の諦観を、果たしてどこまで表現できるのかが今回の一つの聞きどころであった。
オポライスの歌唱はドラマチックな歌で真価を発揮するもので、そういう意味ではドイツ・リートをベースとするシュトラウスの歌とは性質がやや異なる。だが私は事前の懸念とは逆に、そこそこ良かったのではないかと思っている。生で聞くコンサートを、再生装置で聞く録音されたものと比較することはナンセンスだが、それでも私は十分楽しむ事ができた。それは声が非常に美しかったからだと思う。
ただもし、この演奏が私を打ち震える感動に導かなかったとしたら、その原因は二つ考えられる。ひとつは私の曲に対する理解が、まだ十分に及んでいないからだ。歌詞を追いながら聞けるCDと生演奏では違う。たとえそれができたとしても。特に死というものを意識する歌詞を自分がどこまで理解し得るのか、それはまた別問題だ。私は2度余命宣告を受け、死の際まで行った身だが、「夕映えの中で」で歌われる境地には達しなかった。lこれはもしかしたら、「死」をまだ観念的に捉えることができる余裕がある時の心境なのかもしれない。
もう一つの可能性は、オポライスの歌唱が十分美しくはあるものの、総合的にはシュトラウスの晩年の心境を語るにはちょっと明るすぎるのではないかという、主観的とも客観的ともつかない判断である。だが、これはライブという性格のコンサートで、どこまで正確に評価できるのかわからない。私には少なくともその能力がない。事実として言えるのは、上記のいずれか、または両方の理由によって、私は今回の演奏を大変素晴らしいと思いながらも感動することはなかったという事実である。
休憩を挟んだ演目「英雄の生涯」は、「4つの最後の歌」とは異なり、シュトラウスの若い頃の作品である。作曲されたのは飛ぶ鳥を落とす勢いだった1898年は、まだ19世紀ということになる。ここで「英雄」とは伝説上の神でも、ナチスのヒトラーでもなく、彼自身である。この曲で聞ける大規模で迫力ある音楽によって、私はシュトラウスの虜になった。どこまでも続くロマンチックで豊穣な音楽が、他の作品でも体験できることを知るのはそのあとだった。
ルイージはその細身の体を目一杯振り上げながら、N響からとてつもなくダイナミックでドラマチックな音楽を弾きだした。イタリア人ではあるもののドイツ音楽を得意とし、数々のオペラの名演奏でも知られる彼は、ドレスデンやウィーンのオーケストラを指揮することでキャリアを積んできた。N響がこの熱い指揮に導かれ、すべての楽器が躍動的で、大きな広がりを持っていた。サントリーホールで聞く残響の多い音は、時に私を疲れさせさえした。1階席で聞くと、それぞれの楽器が混じり合い、ダイレクトに届く。だからもしかしたら2階席や脇の席の方が適度に分離していいのかも知れない。
「英雄の生涯」(そして「4つの最後の歌」でも)大活躍するヴァイオリン・ソロはコンサートマスターが受け持つが、今回のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだった。彼がオーケストラに加わるだけで、ヴァイオリンの音が大層良く聞える。コンサートマスターによるオーケストラの音の違いを実感する。
切れ味の鋭い、ダイナミックな演奏は、一糸乱れることなく最後まで一気に聞かせたといってよい。N響の実力を弾きだしたルイージには、静かに音楽が終わると(そう、今回の「英雄の生涯」は初稿版が採用されていた)、しばしの静寂が訪れた。丸でそうしなければならないかのように、客席は拍手をこらえていた。そして大喝采に混じり、普段は大人しい敬老会のようなN響の客席も大いに沸いた。花束が贈呈され、わずか1度だけのプログラム(ただし公演は定期を含め何公演か行われる)が終了した。この曲は彼の十八番だったのかも知れない。得意なプログラムで客演をこなしたルイージには、次回是非ゆっくりと客演し、他の曲も指揮してもらいたいと願いながら家路についた。
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