長年、常任指揮者などを務めた広上淳一が京都市交響楽団を率いるのは、来年2022年3月までとなった。京響の2年ぶりとなる東京でのコンサートは、このコンビとしては今回が最後となる。常任指揮者としての「ファイナルコンサート in 東京」と題されたチラシを見たのは先月の下旬だった。演目はベートーヴェンとマーラーのいずれも交響曲第5番。前者がハ短調、後者は嬰ハ短調。凡そ100年を隔てて作曲されたこの2曲は、それぞれ新しい境地へと踏み出す交響曲であると同時に、モチーフにおいても大きな関連性がある。広上は大胆にもその2曲をプログラムに配し、真っ向から勝負するというチャレンジングなもの。14年に及ぶ関係の有終の美を飾るものとなるかは、勿論当日の出来次第。音楽は決して事前に作り置きしておくことのできないものだからだ。
ベートーヴェンの冒頭で、聞きなれた主題が鳴り響いた時、私はとても新鮮なものを感じたのは不思議ですらあった。配置は昔からの標準的なもので、左からヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順。古楽器奏法が主流の現在、むしろ懐かしい響きである。しかもテンポはゆっくり目。主題提示部の繰り返しは省略。たっぷりと旋律を歌わせ、自らも道化師のように踊る広上の姿に、こちらも釘付けとなるのに時間はかからなかった。このような「古典的な」ベートーヴェンは随分久しぶりに聞くな、などと思いつつ、それがここまで新鮮に響くには何か理由があると考えた。それは広上が、すべてのフレーズ、すべての和音に至るまで、ここはこういう音でなければならないという確信に満ちた音作りを目指しているからではないだろうか。
広上の演奏に接するのは初めてである。最近ではNHK交響楽団にもたびたび客演しているし、東京生まれの指揮者なので勿論のことながら、東京での活躍が多い。にもかかわらず、私はこれまで広上の生演奏に接したことがなかった。それなのに、初めて聞く彼の指揮するオーケストラが、京都のオーケストラであるというのも何か不思議な感じである。第1楽章のオーボエのカデンツァ以外では、オーケストラの自発性に任せているというよりは、細部にまでこだわって指揮をしているように思えた。ただそれが威圧的ではなく、開放的で明るいのは、その滑稽とも思える大袈裟な指揮姿からではないだろうか。
第2楽章もたっぷりと歌わせ、聞きなれた音楽が何故かとても嬉しいくらいに新鮮だ。きっちりと、しかし曖昧さもなく進むが、それについて行くオーケストラの技量も確かなものだと感じた。そして第3楽章の低弦の響き。最近の我が国のオーケストラも、かつてのように薄っぺらい低音ではなくなって、むしろヨーロッパのそれに近い。しかし第3楽章までですでに非常に朗らかな感じがしてしまうため、第4楽章の歓喜はむしろ控えめに感じられた。第4楽章でも主題提示部の繰り返しはない。これはプログラム自体が長いためだろうか。
私はこの曲をこれまでにどのくらいコンサートで聞いているか、過去のメモを手繰ってみた。印象には残っていないものの、結構な回数であることが判明した。今回の第5交響曲の演奏は、その過去の記録に照らしても、これほどまでに印象に残った演奏はないと思った。聴衆が期待しているのはこんな演奏ではないか、と広上は考え、その実践をしているように思われた。だから後半のマーラーに、期待が膨らんだ。ただマーラーの交響曲第5番は、ホルンやトランペットを始めとして、結構な技巧が要求される。京都市交響楽団は、その期待に応えられる技量があるのだろうか、と私は少し心配だったのが正直なところだ。だがこれは杞憂に終わった。
私は広上の指揮に限らず、この地方自治体が運営するオーケストラを聞くのも初めてだった。いや実際には、2回目ということもできる。それは小学生の頃、体育館で聞いた出張演奏会の小さなアンサンブルが、京響だったからだ。今から50年近く前のことである。私の通っていた小学校は、大阪府の北部にあった。私の通っていた小学校の音楽の先生は、音楽室に高額なオーディオ装置や楽器などを配備し、児童には楽器を触らせてばかりいる大変ユニークな方で、この先生がその年に招へいするオーケストラを決める時、「京響が一番真面目でいい」と言っていたのを覚えているのだ。まだ何もわからない小学生の授業の中で、そういうことを言った。それ以来、京響は私にとって、いつかは聞くべきオーケストラとなっていた。けれども当時、一番人気は大フィル。大阪から京都に出かけて行くのも不自由なら、京都に音響のいいホールもなかった。
東京に来てからは、関西のオーケストラを聞く機会もほぼなくなった。しかし2008年に京響の常任指揮者に広上が就いてから、京響の技量は飛躍的に上昇し「黄金時代をもたらした」(プログラム・ノートより)とのことだった。私は初めて聞く広上の指揮する演奏会に、京響を選んだ。そしてそのことが大正解だったことを、マーラーの奇跡的な大名演によって確信するに至る。オーケストラの巧さだけでなく、それを引き出した手品師のような広上の指揮が、これほどにまで聴衆を惹きつけるのかと思った。
マーラーの冒頭はトランペットの響きで始まる。モチーフはベートーヴェンのそれと同じ3連符とフェルマータ。しかし100年後のクラシック音楽は、非常に複雑だ。長いマーラーの演奏は、聞いてゆくと今どこにいるのかもわからないような世界に入ってゆく。交響曲第5番の、比較的構造の明確な曲であってもまたしかりである。第1楽章の重苦しく闘争的な音楽。悲劇的な第2楽章。こういった場面をたっぷりと、体を左右にゆすりながら、時に大きくジャンプしては向きを変え、丸でパントマイムのように軽やかに踊る。オーケストラはその表現に寄り添い、最大限の技量をもってついてゆく。この一糸乱れぬ関係は、長年に亘って築かれたものであることを感じさせ、さらにはかなりの量の練習が施されたのではないかと想像するに十分であった。
奇跡的に、まるで魂が乗り移ったようにオーケストラと指揮が一体化してきたと感じたのは、第3楽章からだった。この長いスケルツォを千変万化するリズムやフレーズの中に表現しきった彼らは、続く有名なアダジエット(第4楽章)で、さらに深化したアンサンブルを響かせた。指揮者の正面に配置されたハープと、100%の音量を鳴らす弦楽器の絡み合い。一音ごとに響きに重みを増すフレーズに合わせ、指揮はこれでもか、これでもかとオーケストラを引き立ててゆく。時に唸り声が響く。その楽章が終わったとき、会場が物音ひとつしない静寂に包まれた。消えてゆく音に合わせ、かすかに目を閉じた私は、終楽章でのホルンの響きに身を寄せ、流れては澱み、大胆に鳴らされては消え入るように染み込むマーラー・マジックに翻弄されることとなった。難しい音楽が次から次へと現れ、重なり、大きくなって会場を満たすときでさえ、広上の確信に満ちた指揮は、驚くべきほど雄弁なものだった。こうなればオーケストラも、乱れることなく心がひとつになって、実力以上の力量が示されることとなる。すべての楽器の、すべての奏者が体を揺らし、思いっきり力を込めて弾く。後方にいる弦楽器奏者までもが、まるで魔法にかかたかのように熱演を繰り広げる。その有様は、聴衆にも乗り移ったかのようだ。
全部で2時間20分以上に及んだコンサートが、さらに長い間、拍手の嵐に包まれた。何度も舞台に呼び出された指揮者は、オーケストラが去っても熱心な聞き手に応えた。「アンコールはありません」などと会場に向け挨拶をした広上は、「京響がとても個性的なオーケストラに成長した」というようなことを云った。私はこれまで、そのあまりに大袈裟でひょうきんな指揮姿に、いったいどういうコンサートをする指揮者なのかとこれまで思ってきたが、今日の演奏を見て明確に判った。両手だけでなく、顔の表情、時に両足までも駆使しながら、体のすべてを通して音楽を伝えようとする姿は、それゆえにオーケストラのあらゆる部分に明確な指示を出す。そのユニークな指揮と演奏が一体になった時、驚くような名演奏が誕生する。本日の演奏は、まさにそのことを実体験することとなったのだった。
このような個性的な指揮が、歳をとるとしづらくなってゆかないか心配である。けれども少なくともあと何回かは、京都でこの組合せの演奏会が予定されている。特に注目すべきは、文字通り最後の演奏会となる来年3月の定期である。この時取り上げられるのは、マーラーの交響曲第3番だそうである。私は帰省を兼ねて、京都まで聞きに行こうかとも思っている。
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