1966年(昭和41年)生まれの私は、その70年代を小学生として過ごした。1973年(昭和48年)に大阪郊外のマンモス小学校に入学、その6年後の1979年に卒業した。今でもよく覚えているのは、新しく赴任する小学校の先生が次々と若返り、新しい風を私たちにもたらしたことだ。遠足に持っていく歌集には、新しい歌が数多く登場した。それまでの文部省唱歌や教科書に載るような歌が中心のお仕着せの歌集の他に、先生が別刷りで作成したものだ。その中には流行のフォークソングなどが含まれていた。夜になればキャンプファイアーを囲んで、誰かのギターに合わせこれらを歌う。その歌詞は、それまでの体制から離れて自由になろうとする新しい時代の意志が込められていた。その象徴的な存在は、ジローズが歌った「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修、作曲:杉田二郎)だろう。この曲は大阪万博の年、すなわち1970年に発売された。
私の世代、つまり丙午(ひのえうま)を底とする「くびれ世代」は、その団塊の世代の20年ほど下である。従って、私達の親世代の文化と同時に、それとはずいぶん異なる団塊の世代の文化に大きく影響を受けていると言える。この2つの価値観が、学校や職場で共存・対立し、やがては下の世代が上の世代を駆逐してゆく有り様を、昭和から平成へと連なる過程で観察してきた。もっとも我々の世代は、その上下の世代に比して同年代の人数が圧倒的に少ないから、時流に乗ることもなければ世間の注目を集めることもない、極めて地味で消極的な世代だと思っている。実際、タレントや政治家になって世間の注目を浴びる人の割合は、これらの上下の世代に比べ圧倒的に少ない(1966年「ひのえうま」生まれは特に少ない)。
1970年代に隆盛を誇り、以後は低迷してゆく昭和アイドル文化はまた、団塊の世代が同年代の人を支えた文化ではないかと思う。そしてこれらアイドル系歌謡曲の裏で若者の心を捉えるニューミュージックもまた、彼らの文化である。実はニューミュージック系の文化こそ、若者文化の本流だったと知るのは、私が中高生になってからで1980年代のことである。従って小学生の私は、いわば表側の若者カルチャーたるアイドル歌謡曲に触れることが、生活の中でのごく一般的な出来事だった。そしてそのアイドル歌手の中で、もっとも高度成長期の底抜けの明るさを感じさせるのが、天地真理だと思う。
私が小学生に入った頃、すべてのチャンネルのテレビ局では歌謡曲番組が花盛りで、ヒット曲の歌手が出演する歌番組は、毎夜どこかの放送局がゴールデンタイムに放映し、その合間にはアイドル向け番組が時代劇やプロ野球中継の狭間に差し込まれた。TBSの「真理ちゃんシリーズ」は、そのような番組のシンボルだった。私はその中でも「真理ちゃんとデイト」を良く見ていた記憶がある。アイドルの中でも天地真理ほど、各放送局が競って登場させた歌手はいないだろう。どの時間にテレビをつけても、彼女を見ない時間帯はなかった。その様子は、全盛期の坂本九に匹敵し、それ以降にはもう存在しないと思われる。三人娘の他の歌手、南沙織と小柳ルミ子がこれに及ぶことはなく、郷ひろみや沢田研二のような男性系アイドルも、滅法有名ではあったが、そこまでテレビの寵児とまでは行かない。天地真理こそ1970年代を駆け抜けた満面笑顔の大スターだった。
彼女は「恋は水色」でデビューし、瞬く間にヒット作がこれに続いた。「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「恋する夏の日」などである。私はその中でも一番印象に残っているのが「虹をわたって」である。この曲は1972年にリリースされた4枚目のシングルで、3曲連続でオリコン1位を獲得したことでもわかるように、この年の代表的なヒット曲となり、翌年の選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれた。この1973年頃が天地真理の短すぎる絶頂期だったと思う。それ以降にも新しい曲は発売され、コンサートも活況を呈するが「思い出のセレナーデ」以降は翳りが見える。
とにかく天地真理の屈託のない曲と朗らかな歌唱は、高度成長が続く我が国の、楽天的で自信に満ちた喜びを感じる。楽曲の中にはメランコリックな曲も多いが、それがちっとも深刻にはならず、むしろ幸福感を感じるようで、この時代の雰囲気を良く表している。だが、実際にはベトナム戦争がひどくなってゆくこの頃、社会のひずみも増していくのと同様に、彼女自身もまた少々無理をしていたようだ。1974年を最後に紅白の舞台からは遠ざかり、1977年には体調不良で芸能活動を休止。以後、今日に至るまでマスメディアの話題にのぼることはなくなった。昭和アイドル歌謡の絶頂期を駆け抜けた表の顔は、彗星の如く登場し、虹のように消えて行った。

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