小学校低学年頃、NHKの人形劇「新八犬伝」(1973-1975)を見るのが好きだった。この人形劇は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を元にした奇想天外なストーリーで、私は夜6時になると夕食までの小一時間、「こどもニュース」から始まる子供向け番組(の中で放映された)を毎日見ていた。
人形劇と言えば「ひょっこりひょうたん島」(原作:井上ひさし)だが、私もこの人形劇の歌をよく覚えていて、見た記憶があるようなのだが、どう考えてもそれはかなり幼少の頃で、記憶していること自体が疑わしい。これに対し「新八犬伝」(脚本:石山透)は、そのストーリーも楽しく私がもっとも好きだった番組である。人形劇はその後も続き、「真田十勇士」などは大いに期待したがさほどでもなく、以降、「笛吹童子」、「紅孔雀」、「プリンプリン物語」と続くが「新八犬伝」を上回るワクワク感に及ぶものはなく、そのうち私も人形劇から卒業してしまった。
なぜ「新八犬伝」がそれほど楽しかったか。の理由のひとつは、坂本九の楽しい語りにあったと思う。所詮、小学生の頃である。飽きない演技とコミカルな表現。黒子となった九ちゃんが丸九と書かれた頭巾をかぶって時々登場する。私はまだ漢字を覚えたての頃だったから、あちこちに「仁義礼智忠信孝悌」などと書いては、知らない文字を書けることに優越感を感じていた。
坂本九は1960年代を代表する歌手で、その絶頂期に丁度世間に行きわたり始めたテレビ・メディアの寵児とも言える芸能人だった。「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は1961年に始まったバラエティ番組「夢で会いましょう」で紹介された途端にヒットし、日本人として全米ヒット・チャートのトップを飾った記録はいまだに破られていない。さらには、「見上げてごらん夜の星を」、「幸せなら手をたたこう」、「明日があるさ」、「涙くんさよなら」などのヒットソングを連発する。
その坂本九が人形劇の語りを担当し、テーマ曲を歌った。「夕やけの空」というのがそれである。そしてこの曲が、挿入歌だった「めぐる糸車」と合わせてドーナツ盤レコードになり、私も大いに欲しかったが叶わなかったのを覚えている(レコード屋に見つけることができなかったのである)。
小学校3年生になって、私は同級生の友だちの家に遊びに行くことが多くなった。アメリカ人と日本人のハーフというのは当時としては非常に珍しいことで、遊びに行くとアメリカ人のお母さんが瓶入りのコカ・コーラを出してくれた。もっとも彼との普段の会話はすべて普通の日本語で、顔つきは白人なのに英語が喋れないことにコンプレックスを抱いていたようである。
そんなことは知らず、小学生二人が放課後の時間をかけてやるあそびが麻雀だった。と言っても小学3年生二人でやるのだから、簡単に役ができる。そんな見よう見まねの域を出ない麻雀遊びを、毎日彼の家の応接間でしていた。その応接間には立派なステレオセットが置かれていて、当然クラシックのレコードも豊富にあったと思うのだが、彼の家で良く聞いていたのが坂本九のベストアルバムだった。坂本九が、「火薬」と書かれた箱の上で煙草をふかしているというジャケットの写真でが面白く、この人はコメディアンだと思っていたくらいだ(このジャケット写真は後年、ベストアルバムがCD化されたときに復活している)。
人形劇の語りだった坂本九の歌を、私と友人は毎日のように聞きながら、麻雀をしていた。随分変わった小学生だった。そのLPに収録されていた曲には、上記のミリオン・セラーの他に「ステキなタイミング」、「悲しき六十才」、「あの娘の名前はなんてんかな」といったギャグのような歌詞を持つ曲も収録されており、私はそれらの歌詞を覚えては友人に自慢していたようだ。独特の歌い方と伸びやかな声で、坂本は高度成長期の元祖アイドル的存在だった
人形劇に語りを担当した1941生まれの坂本九は、この頃まだ30代である。しかし、1970年代に入るとテレビに登場する機会は減っていった。私の世代から見ると、彼はすでに「過去の人」という感じである。同年代で彼の歌を知っている人はほとんどいない。永六輔や中村八大が細々とでも活躍を続けるのと違い、アイドルの賞味期限は短かったのである。だが誰もが予想しなかった事故が起こった。1985年の日航ジャンボ機墜落事故である。坂本九は偶然にもこの便に乗り合わせ犠牲者となった。享年43歳。その時私は大学受験浪人中だったが、ラジオなどで坂本九の歌が数多く流れた。その中には、かつてLPで親しんだ数多くの楽曲が含まれていた。昭和の終わり、丁度バブル景気が始まろうとしていた頃のことだった。
平成の時代になって、テレビのCMなどで坂本九の歌が復活する。私の最も好きな「明日があるさ」がウルフルズ他の歌手によって歌われ、紅白歌合戦でも披露されている(2001年)。「見上げてごらん夜の星を」(作詞:永六輔、作曲:いずみたく)はゆずがカバーし(2006年)、「上を向いて歩こう」は、最も新しいところではSEKAI NO OWARIが歌っている(2016年)。「明日があるさ」が復活したのは、日本経済が長期的低迷に入り込んでいたことによる諦めから来る開き直りである。けれども本来の「明日があるさ」は、日本経済の高度成長期におけるストレートな明るさと自信を感じさせる。我が国の奇跡的復活は、大雑把に言えば60年代から70年代までである。私はこの最後の部分を、少年時代にわずかに感じることができた最後の世代だと思っている。
いつもの駅で いつも逢う セーラー服の お下げ髪
もうくる頃 もうくる頃 今日も待ちぼうけ
明日がある 明日がある 明日があるさ
ぬれてるあの娘 コウモリへ さそってあげよと 待っている
声かけよう 声かけよう だまって見てる僕
明日がある 明日がある 明日があるさ
今日こそはと 待ちうけて うしろ姿を つけて行く
あの角まで あの角まで 今日はもうヤメタ
明日がある 明日がある 明日があるさ
思いきって ダイアルを ふるえる指で 廻したよ
ベルがなるよ ベルがなるよ 出るまで待てぬ僕
明日がある 明日がある 明日があるさ
はじめて行った 喫茶店 たった一言 好きですと
ここまで出て ここまで出て とうとう言えぬ僕
明日がある 明日がある 明日があるさ
明日があるさ あすがある 若い僕には 夢がある
いつかはきっと いつかはきっと わかってくれるだろう
明日がある 明日がある 明日があるさ
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