この音楽性が、3年ぶりにN響の指揮台に立つトゥガン・ソヒエフと唯一無二のコラボレーションを繰り広げる。結果生まれる音楽は、完璧である。さらにその音楽が、ブラームスのピアノ協奏曲第2番である。イタリアに触発された北ドイツの作曲家の、ほのかに明るく気楽でありながら、ストイックで静かな音楽を奏でると、知的な愉悦感と安らぎが高度な次元で融合する。イタリアの片田舎を旅するようなのどかなその情景は、夏の朝の中に立ち上る静かな川縁であったり、秋の夕暮れの平和的な田園だったりする。
ソヒエフの伴奏は見事というほかなかった。もともと私はソヒエフを初めて聞いた時から、N響の音がいつもと違うと感じたものだ。それはテレビで見たときに直感した。その後実演で聞いた組曲「シェヘラザード」の圧倒的な名演と、その前に演奏されたブリテンやフォーレの作品で、私は生涯忘れられないコンサートを経験したが、当時音楽監督だったトゥールーズ・キャピトル管弦楽団によるチャイコフスキーの「白鳥の湖」でも、同じことを感じた。彼は不思議なように、オーケストラの音色を操る。音と音の組み合わせが、一音一音と異なっていくそのさまを、全く最適な音量で轟かせる天才的な才能を持っている。
これがフランス音楽のエッセンスとでも言うべきもので、精緻で繊細な音の変化がもたらす雰囲気は、まるでほんの少しの醤油を混ぜただけで味が変化する日本料理のように奥深い。そして今回のドイツ音楽でも、そのことは立証されたのだ。ブラームスの内省的で複雑な心理が、こんなに見事に表現されたことがあっただろうか。そしてピアノの明るいタッチが、ブラームスとイタリアという、どこか相容れないようなものの融合を見事に表現した。あのポリーニがアバドと録音した演奏がそうであったように。
第1楽章のホルンの出だしとそれに続く長いソロ。スケルツォ楽章の独特な変化はリズムにも表現され、第3楽章でのチェロ独奏部分を頂点に、最終楽章での、まるで踊るような嬉しさの中で迎えるコーダに至るまで、酔いに酔った50分間は至福の時間だった。まさかこんな演奏を味わえるとは思ってもいなかった。ハオチェン・チャンは、プロフィールによれば1990年生まれ、若干32歳ということになる。日本での公演も多いというから、一度リサイタルを聞いてみたい。評判によればシューマンが良さそうである。
私が思い立ってN響の定期公演に出かけたのは、朝から冷たい雨が降ると予想され、趣味のウォーキングを諦めざるを得なかったからだ。NHKホールでのN響のコンサートに行くのは、コロナ禍直前の2020年1月以来だから、丁度3年ぶり。これは前回のソヒエフの来日とほぼ同時期である。だがこの間に世界は変わってしまった。プログラム・ノート「フィルハーモニー」によれば、北オセチア生まれのロシア人である彼はウクライナ戦争が始まった時、トゥールーズのオケとボリショイ劇場の音楽監督を自ら辞任したそうである。芸術家か政治を通したメガネで見られるのを嫌ったからだろうか。この間にNHKホールは改装のため、一時的に拠点を池袋に移したが、この東京芸術劇場で聞くN響は、どこか違和感があって好きになれなかった。このたび会場がどんな風に変わっているのだろうかと興味があったが、椅子の狭さや音響など、何一つ変わっていないように思えた。
ソヒエフの音楽は、健在だった。いやより深みに達したのではないか。それが如実に証明されたのが、プログラム後半のベートーヴェンだった。私はコロナ禍で、生誕250周年となった2020年のベートーヴェンの演奏会を全てあきらめざるを得なかったが、それを埋め合わせるように、交響曲が演目に上ればチケットを買って聞いてきた。第5番、第9番「合唱」、第3番「英雄」、第7番、第6番「田園」と聞いてきて、今回は第4番である。この「北欧の乙女」のシンフォニーを、記録によれば過去に10回程度は聞いているようだが、記憶に残っているのはあのカルロス・クライバーの来日演奏だけである。しかし今回の演奏は、その演奏にも勝るような完成度だったと思う。
今回の私の席は、少しケチってB席だったこともあり(何と当日券は座席指定ができないと言われた。かつてはできたのに!)、1階席ではあるもののほとんど壁際というところ。この位置で聞いた演奏もいくつかあるが、あまりいい印象はない。ところが、である。指揮者がソヒエフに変わって、何とこの位置でも素晴らしくいい音に聞こえるではないか!それは奇跡といってもいいくらいに、音と音が程よく溶け合う。さらにはピアノまでも!何度も書くが、ソヒエフの音の組み合わせのバランスと強弱の妙が、こんな位置でも確認でる!そしてN響の木管楽器が、とても見える位置ではないにもかかわらず、手に取るようにヴィヴィッドだ。何ということだろう、それに向こう側に座っているヴィオラのパートの熱演ぶりが、指揮者を超えた位置からもよくわかるのだ。
驚いたことにソヒエフは、ふだん両手のみで指揮するが、ベートーヴェンの演奏では指揮棒を持って現れた。音の強弱にさらにメリハリがつけられ、手品のように各パートを指示していく。丁度真横から見る彼の指揮ぶりは、クライバーとはまた異なった興奮に満ちたものだ。オーソドックスな演奏でありながら、これほどにまで確信に満ちた見事な演奏には、そう出会えるものではない。オーケストラも乗っている。どこかどうというわけではなく、すべてがいい。良く知った音楽が見事に終わって、マスクをしていなければ飛び交ったであろうブラボーを心の中で大きく叫びながら、許可された写真を何枚も撮った。舞台袖から花束が送られ、それが本日限りでコンサート・マスターを引退する「マロさん」こと篠崎史紀氏に渡されたとき、とりわけ大きなものとなった拍手は、珍しいことにオーケストラが立ち去っても鳴りやまなかった。そういえばそれまで冷めた客が多かったN響のコンサートだが、いつのまにか登場の際にも拍手が起こるようになっていた。3年ぶりのコンサートで、変わったものと変わらなかったもの。その両方がいろいろ発見だった、私にとっての今年最初のコンサート。今シーズンからN響のシェフは、イタリア人のファビオ・ルイージに変わった。ソヒエフもそうだったが、世界中を飛び回る多忙極まりない指揮者には、もう少し落ち着いてコンサートを指揮してもらう必要があると感じていた。だがコロナ禍を経て、少なくともソヒエフに関しては今月はたっぷり3つのプログラムを振る。最近発表された来シーズンでも、再び1月に来日することが決まっている。ハオチェン・チャンとソヒエフは、今私が目を離すことにできない音楽家である。
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