2024年4月1日月曜日

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(2024年3月29日、新国立劇場)

前奏曲冒頭のトリスタン和音が鳴り響いた時から、いつもとは違うなと感じた。これほどにまで深く脳裏に刻み込むようなメロディーの連続に、そしてそれを確信に満ちた足取りで音符を奏でる大野和士指揮東京都交響楽団の演奏に、一気に飲み込まれたからだ。以降はしばらく体が硬直し、北海の海のうねりを繰り返すオーケストラの響きに、しばし圧倒された。

舞台は早くも幕が上がって、丸い天体が昇って来た。それは次第に赤くなりながら、舞台の上部にゆっくりと移動する。暗闇の奥から一双の船が現れ、向きを変えて舞台の中央に動く。アイルランドの王女イゾルデを乗せた船が、マルケ王の待つコーンウォールの港に向けて航行しているのだ。甲板にはイゾルデ(リエネ・キンチャ、ソプラノ)と侍女ブランゲーネ(藤村美穂子、メゾ・ソプラノ)がいる。

船にはイゾルデを迎えに来たトリスタン(ゾルターン・ニャリ、テノール)も乗船している。だが第1幕最初の主役はイゾルデ、そしてブランゲーネだ。以降、第1幕はどちらかというとこの物語の前提となるいきさつが述べられる。ワーグナーお得意の長々とした語りのシーンも多いが、それでも聞き所は満載。驚くべきことに、主役二人を含め歌唱水準の平均値が恐ろしく高い。これによって物語への没入感はいっそう深まる。

本公演は2010/11年シーズンで上演したデーヴィッド・マクヴィカー演出版の再演である。この時指揮をしたのも大野和士だった。私はこの公演のことを知らないが、評判が良かったのだろう。大野は2018年から芸術監督に就任した時から再演を望んでいたようだ。そしてコロナ禍を経てようやく実現に漕ぎつけた。私は、ワーグナー作品の中で唯一実演に接してこなかったこの作品を、とうとう見ようとひそかに考えていた。

そもそもクラシック音楽を聞き始めて以来、多くの作品、とりわけオペラには関心が高く、これまで主要な作品と言われるものは、時間とお金をやりくりして出かけてきた。その公演のすべてをこのブログに書き記してきたが、とうとう最後の主要作品となったわけだ。値上がりした新国立劇場のオペラのチケットは、もはや私には簡単に手が出せるものではなくなった。だが「トリスタン」だけは何が何でも見ておかねばならない。

本当は昨シーズンの「ボリス・ゴドゥノフ」も、今シーズンの「エフゲニー・オネーギン」も見たかったが、これは断念せざるを得なかった。昨年からの私は時に体調が悪く、長い時間椅子に腰かけていることに不安だったということが大きい。仕事は4月から大きなプロジェクトが始まることが決まっており、私もそれに関わる予定だ。時間があるのは今のうちである。さらには息子が受験生となり、志望校を目指して勉強をしてきたが、それもこの3月で終了。最後の合格発表が3月下旬になり、18年続けてきた子育てに区切りが訪れる。私はこの日が来るまでは、チケットを買っていなかった。

その最大の理由は、実のところ主役二人の交代が発表されていたからだ。そもそもトリスタンもイゾルデも、世界でそう誰でも歌えるものではない。とりわけトリスタンは、この5時間にも及ぶ作品に出ずっぱりで、その間中ずっと声を張り上げていなければならない。「トリスタン」の公演には幕間に2回の休憩があるが、そのいずれもが45分間と長いのは、喉を休め声を整える必要があるからだ。そのトリスタンを歌うはずだったトルステン・ケールが来日できなくなり(理由は不明)、すでに発表されていたイゾルデ役(エヴァ=マリア・ヴェストブルック)の交代に続いて、決定的に魅力を失ったと思われた。

丁度この頃、東京では今一つの「トリスタン」が上演される。東京・春・音楽祭である。指揮はマレク・ヤノフスキ。NHK交響楽団との組み合わせで、何年も前からワーグナー作品を毎年取り上げてきた。演奏会形式ながら公演の水準は驚異的で、私も「ニーベルングの指環」を4年に亘って鑑賞したことは記憶に新しい。だが、よりによって同じ時期に、東京で二つもの「トリスタン」を上演することもないのに、と思った。時間と懐具合を考えると、さすがに両方に出かけるのはかなりきつい。時期を分けてくれるとありがたいと思った。

その上野での公演の方が、もしかするといいのではないか、などと考えた。だが私はヤノフスキの速い演奏が「トリスタン」には相応しくないと思ったことに加え(実際はそうでもなかったようだが)、この作品はやはり舞台を観たい。でも新国立劇場のオペラの値段は、昨今の物価高と円安によって大幅な値上げを余儀なくされ、S席で3万円を超える価格設定になったのを受け、私もさすがに主役二人が交代する上演を見るのは、ちょっとやめておこうと思ったのである。

ところが、である。初日を迎えた公演の状況を、いつも読んでいるブログなどを眺めてみると、これが恐ろしいほどに高評価なのである。X(旧Twitter)でもそれは同じだった。息子は何とか進学先が決まって、ようやく私の肩の荷も下りた。体調は相変わらずだが、だからこそ見られるときに見ておきたい。仕事は3月末で大きな人事異動があり、いろいろ組織が変わって歓送迎会なども開かれるが、それも29日が最後。30日の千秋楽公演は金曜日の午後で、年度末の繫忙期ではあるものの、必死にやりくりをすれば何とかなるだろう。何せ「トリスタン」を見るのは、今回が最初で最後となる可能性が高い。

ホームページでチケットの発売状況を見ると、やはり値段が高いからだろう、そこそこの枚数が売れ残っていた(最終的には売り切れた)。そして嬉しいことに1階席の中央寄り通路側という絶好のポジションが残っているではないか!そこで私の腹は決まり、この席に3万円強を支払った。その時から1週間は、まるで遠足を前にした小学生の気分だった。数日前からは体調を整え、会社の送別会でも深酒は慎んだことは言うまでもない。そのようにして万全を期して初台へ。前日まで降り続いた大雨もようやくあがり、気温も一気に上昇して春めいてきた。

その「トリスタン」の公演には、外国人も多く詰めかけていた。韓国からのグループもいたが、みな着飾っていることに比べると、我が日本人の服装のセンスのなさには失望させられる。特にワーグナー作品となると、高齢の男性の比率が異常に高く、一様にみすぼらしい恰好ときている。ただ今回はどういうわけか、そういう「ダサいワグネリアン」に加え、若い人、それも女性が多いのである。これは「トリスタン」だからだろうか。あとでわかったことだが、若い客が多いのは、チケットの割引があるからだろう。いつものワーグナー公演とは異なる雰囲気に、私は少し戸惑いつつも気分は高揚していた。

第1幕の後半には、とうとうトリスタンが媚薬を飲まされてしまう。政略結婚への準備に、毒薬と媚薬をもってきた侍女が、毒薬と間違って飲ませたのが媚薬だった、というわけだ。二人の体内に薬がじわじわと浸透し、ついに覚醒するシーンが印象的である。二人の相克が頂点を極めたあとで、解き放たれたように音楽もパッと変わる。と同時に、舞台に銀の垂れ幕のようなものが出現した。愛の音楽、それは死の世界。ここから第1幕の幕切れまでは、二人が躊躇なく愛し合うシーンになる。そして船はコーンウォールに到着する。

心に残ったシーンは第2幕の最初で、盲目的なイゾルデの愛は、ブランゲーネの忠告もむなしくまっしぐらである。松明を消す時に歌われるイゾルデの歌が、大変美しいと思った。舞台の奥から時折登場するブランゲーネの声が、イゾルデの声を重なり合う。イゾルデのキンチャとトリスタンのニャリは、いずれも最高位ではないものの、不足感を感じさせない歌声だった。この二人に決定的な不満が残らないことが、まずはこの公演の成功に最大限寄与したと思う。

それにも増して素晴らしかったのは、トリスタンの従者クルヴェナール(エギリス・シリンス、バリトン)とマルケ王(ヴィルヘルム・シュヴィングハマー、バス・バリトン)だったことは疑いがない。彼らの歌声は、まさにこれぞワーグナーというべき貫禄で、声の張りが一等際立っていた。だが、彼らと主役二人を同列に扱うのはやや不公平だろう。なぜなら出演するシーンが主役に比べ圧倒的に少ないからだ。彼らが少ない出番に力を集中させればいいのに対し、主役級はほぼ全編で粘り強い歌唱力が必要である。いわば中継ぎ投手と先発投手を同列に比較できないようなものだ。

第2幕では、二人の逢引きがマルケ王に見つかるシーンがクライマックスである。メロート(秋谷直之、テノール)の剣に倒れるトリスタン。第3幕ではその負傷したトリスタンが、死に絶えていくシーンが長々と展開され、そこにかけつけるイゾルデが「愛の死」を歌う。この最後のシーンこそ、最高の見せ場である。衣装を赤いドレスに変えた彼女が歌うその歌詞が、舞台両脇に表示される。これほど字幕が嬉しいと思ったことはない。普段、「前奏曲」と「愛の死」だけを聞いているだけではわからない、この長い時間を経て繰り広げられる歌詞の持つ意味が、ひしひしと伝わって来る。溢れんばかりのロマンを讃えて流れる歌唱に、聞き手の目頭は熱くなり、涙で字幕がぼやけてくる。あまりに美しく、陶酔に満ちた音楽はワーグナーの魔法である。5時間以上に亘って舞台を見続けた者だけが感じることのできるわずか10分間、私は感動に打ち震えるのを抑えることができなかった。

おだやかに、静かに彼が微笑みながら
目をやさしく見開く様子が
みなさんには見えているの?見えないの?
しだいに明るくかがやきを増し、
星々に照らされて空高く昇って行くのを
・・・
こんなにも素晴らしくかすかに、
歓喜を嘆き、すべてを語り、
その響きの中からおだやかに調和し、
私に迫り、私を揺さぶり、
優雅にこだまし、
・・・

自分自身のクラシック音楽鑑賞の集大成として、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を見るのは、公私にわたって一区切りがつくこの時と決めていたのは、この公演が丁度その時期に偶然重なったからである。どちらかというとそれまで遠ざけてきた作品、音楽史上重要で、しかも音楽的に例えようもなく魅力があると言われてきた本作品を理解することが、素人の一愛好家には高い敷居だった。もちろん私は、クライバーの録音にも接したし、METライブの上映も見たことはある。しかし、ちゃんと親しんだとは言えない中途半端な状態で40年余りの歳月が流れ、満を持して挑んだ「トリスタンとイゾルデ」の実演を、生きている間にもう見ることはないだろう。少なくとも私にその機会が再び訪れたとしても、今回の公演以上の出来栄えを期待するのは不可能ではないか。

だが私はこの作品を、若い時に見ておきたかったと思い、少し後悔した。本日の公演では、結構若い客が多かったが、もしこの作品に多感な時期に触れていたら、人生が少し変わったかも知れない。もっともそのように思えるには、それなりのオペラと音楽の経験が不可欠だとも思う。つくづくクラシック音楽は難しく、恐ろしいものだと思う。名作の名演に接したところで、それが自分の意識にピタリと当てはまるとは限らない。が、偶然にも当てはまった時には、その人の人生をも変えてしまうほどの力を、音楽というものは持っている。とりわけワーグナー、その最右翼たる作品が「トリスタンとイゾルデ」であることは確かだ。

嵐の「昼」に始まった楽劇は、第1幕と第2幕の間には雲一つない快晴となり、終演時には日も暮れて「夜」になっていた。あれから数日たったいまでも、私の脳裏には「トリスタン和音」が鳴り響いている。

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