2024年4月24日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「エレクトラ」(2024年4月21日東京文化会館、セバスティアン・ヴァイグレ指揮)

ちょうど桜が咲く頃の上野公園で開催される「東京・春・音楽祭」も今年20周年を迎えた。IIJの鈴木会長が主体となって始まったこのコンサートも、すっかり春の風物詩として定着、昨今は世界的なオペラ公演が目白押しで目が離せない。今年は何と「トリスタンとイゾルデ」「ラ・ボエーム」「アイーダ」それに「エレクトラ」の4つが上演された。

いずれの演目も大いなる名演だったようだが、その中で私は「エレクトラ」の公演に出かけることになったのは、いつものように前日のことだった。一連の音楽祭の最終日にあたる4月21日は、すっかり桜は散りはててはいるものの、多くの人出でいつものように大混雑。少し早く家を出て、東京国立博物館などにも足を運びつつ、15時の開演を待つ。休日午後の演奏会が14時に始まるものが多い中で、15時開演というのは大いに好ましい。14時だとお昼が慌ただしく、夜には早すぎるからだ。

R・シュトラウスの歌劇「エレクトラ」は、単一幕のオペラで休憩がない。100分もの間中、切れ目なく音楽が鳴り響くのは前作「サロメ」同様である。ただストーリーはより陰惨で救いようがなく、しかも主人公のエレクトラは終始舞台にでずっぱりであるばかりか、大音量で大声を張り上げる必要がある。そればかりか、その妹クリソテミスもまた、大変な声量が必要とされる難曲である。

私はこの「エレクトラ」に長年馴染めないでいた。数年前にMet Liveシリーズで映像を真剣に見たときも、不協和音だらけのとっつきにくいオペラで、それはシェーンベルクの「ヴォツェック」のような作品ではないか、とさえ思った。なぜか「サロメ」や「影のない女」のようにはいかなかった。そういうことがあって、ワーグナーにおける「トリスタンとイゾルデ」同様、この作品が私の前に立ちはだかっていた。

今年、オペラ体験の集大成として「トリスタンとイゾルデ」をとうとう実演を見たことは先日ここに書いたが、考えてみるとまだ「エレクトラ」が残っている。この作品はR・シュトラウスの作品の中で、唯一実演に接していない主要作品となっている。丁度いい機会が訪れた。「エレクトラ」はさほど人気がないのか、それともチケットが高すぎるのか、前評判がいいにもかかわらず多くの席が売れ残っていることがわかった。これは行かない手はない。いやここで行っておかなければ、後悔するとさえ思った。なぜなら「エレクトラ」の公演は、我が国ではまだ数回しか行われていないからだ(その数少ない上演史の中で、20年前の小澤征爾指揮による「エレクトラ」が「東京・春・音楽祭」の幕開けであった)。

開演時刻が来てオーケストラの団員が自席に着くと、その規模の大きさに圧倒される。管楽器のセクションだけでも6列。バイオリンは4パートもあり、さらにビオラから持ち替えて6パートにもなる。左端にはハープと打楽器が陣取っているが、3階席最左翼の私の位置からは見えない。やがて舞台には侍女たち6人がずらり勢ぞろい。指揮者のクリスティアン・ヴァイグレがタクトを振り下ろすと、いやそれはもう聞いたことがないようなすさまじい大音量が会場に鳴り響いた。

ベルリン生まれのヴァイグレは、2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者に就任しており、もう5年目ということになろうか。お互い知れつくした間柄から見事というほかない音楽が、怒涛の如く流れ出すのは驚くべきことだ。そしてそれに負けじと歌う侍女たちは、いずれも我が国を代表する女性歌手たちで、みな奮闘している。この最初の数分だけで、興奮のるつぼと化した会場に、早くもエレクトラ(ソプラノのエレーナ・パンクラトヴァ)が登場した。

エレクトラはここでいきなり長いモノローグを歌う。その声量たるや、舞台上に陣取った大規模なオーケストラが大音量で鳴り響いても、なおそれは3階席までも十分届くもので、さらに驚異的なことには、そのボリュームを幕切れまで維持するという離れ業である。パンクラトヴァはロシア生まれの歌手で、世界各地の歌劇場で主役を歌うディーヴァだが、プログラム・ノートが配布されておらず、そのような記載はオンライン検索しないとわからない。音楽祭の全公演を網羅した分厚いプログラムを購入すれば、少しは掲載されているのだろうけれど、それでは興味ない公演のものも掲載されていてちょっと冗長である。

続けよう。次に登場したのがエレクトラの妹、クリソテミス(ソプラノのアリソン・オークス)である。英国人の彼女は、さらに驚くべきことにパンクラトヴァ以上の大音量で、聞くものを圧倒した。その声量は、まるでもうひとりエレクトラがいるのでは、と思わせるほどだったが、彼女は姉と違い、あくまで女性としての幸福を願ってやまない。姉から母への復讐を持ちかけられても、頑なに拒否する。

この劇の前半はすべて女声である。続いて登場するのが母親のクリテムネストラ(メゾ・ソプラノの藤村美穂子)である。彼女も何年もバイロイトで歌ってきた我が国を代表する女性歌手で、その歌声はお墨付きだが、夫を殺害し娘から復讐を企てられている悪役としては、ちょっと物足りない。いや、何というか、悪役になりきれない上品さが、ここではちょっと役柄に合わない、というか。ただそれは極めて贅沢な話で、歌唱そのものは圧巻であり、二人の娘に交じって壮絶なドイツ語の歌唱を披露する。

3人の主役級の女声陣が登場して、丁々発止の会話に巨大なオーケストラが盛り立てる。クリスティアン・ヴァイグレという指揮者を聞くのはわずかに2回目で、あとはMETライブで「ボリス・ゴドゥノフ」を見たくらいだが、この指揮者はこうも身振りの激しい指揮者だったかと思った。全身全霊を傾けて100人以上はいるだろうオーケストラをドライブする様は、それだけで見とれるのだが、歌手の見事さに耳を奪われ、さらには字幕を追わなければならないので非常に疲れる。シュトラウスの音楽が聴衆にもドッと押し寄せて、こちらの体力を試すかのようだ。まさに会場と舞台ががっぷりに組む真剣勝負である。

音楽が切れない。登場人物が入れ替わるわずかの時間に、オーケストラにスポットライトが当たる。シュトラウスの音楽は、この作品ではいつにも増して豊穣で急進的、緻密にして描写的である。歌詞のひとつひとつに合わせて、楽器がその事物を即物的に表現する。だから陰惨な話がよりヴィヴィッドに展開される。演奏会形式ではあるものの、歌詞を追うだけのであるにもかかわらず想像力が掻き立てられる結果、かえってそのおぞましさが強調されているようにも感じる。オーケストラが舞台上にいる、というのもある。

姉が復讐殺人の実行犯にと考えていた弟のオレストは、馬に惹かれ死亡したと告げられる。なら妹と二人で実行するしかない。しかしここでも妹はあくまで拒否。失望するエレクトラは、もはやひとりで実行するしかないと腹をくくる。そこに見知らぬ男が現れる。それこそ友人に扮した弟オレスト(バスのルネ・パーペ)だった!

ここの音楽は全体のクライマックスのひとつだろう。陶酔に浸るエレクトラ。この時点でもう舞台は半分以上が経過している。ひとり譜面台を観ながら歌ったパーペだが、彼の活躍を知らない人はいないほど有名な歌手だ。数々のビデオ、CDあるいは各地の公演で私もその存在をよく知っているが、実際に聞くのは初めてである。舞台に初めて男声が響く。うっとりするほど綺麗な低音である。脇役にもこれだけの大歌手が揃っているのは、見事というほかない。

とうとう復讐を実行するときが来た。このシーン、あまりに凄惨である上、オペラでないと見てはいられない話(もとはギリシャ悲劇だが)である。おそらく虐待されて育ったであろう長女が、父親を殺されたその場面を見ていたというくだりだけでもおぞましいが、それを殺った母親とその情夫エギスト(テノールのシュテファン・リューガマー)に復讐するというのは現代でもある話である。そのようなニュースを聞くことはつらく怖いが、そういう話は大昔からあって、それが舞台になっている。それに生々しい音楽が付いている。

ただ実際の舞台でもさすがにこのシーンは場外で行われることになっていて、その状況が逐一告げられ、それを聞きながらエレクトラが舞台上で歌う。断末魔の叫び声が舞台裏から響き、歓呼の声を上げるエレクトラとクリソテミス。ここから歓喜の踊りに狂う最後のシーンは、興奮を通り越し、もう何が何やらわからないようなだった。舞台が一層あかるくなり、指揮者の身振りがさらに大きくなって、ぐいぐいと音楽が進む。そしてそれが頂点に達したところで舞台の照明が一気に消され、幕切れとなった。

圧倒的な歓声に包まれた会場は、早くもスタンディングオベーション。最前列から5階席後方に至るまで、ブラボーの嵐となった。順に舞台に登場する歌手陣、指揮者、合唱団、それが何度も繰り返され、カーテンコールは20分近くに及んだ。出演した人はみな会心の出来ではなかっただろうか。満面の笑みをうかべて喝采に応えているその表情は、この音楽祭の最終公演に相応しい素晴らしい瞬間であった。

全身が硬直していた。外に出ると小雨が降りだしており、火照った頬に当たるのがわかった。

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