2024年4月15日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第759回東京定期演奏会(2024年4月13日サントリーホール、下野竜也指揮)

この春から日フィルの定期会員になって2回目の演奏会に出かけた。指揮はまたしても下野竜也で、私は彼の演奏を今年に入ってすでに3回も聞いている。定期会員でなければパスしたかも知れない。だがプログラムが良かった。シューベルトとブルックナーのそれぞれの交響曲第3番。ロマン派の前期と後期、時代は異なるがともにウィーンで活躍した作曲家だ。今年はブルックナー・イヤーということで、数多くのコンサートでブルックナー作品が取り上げられているが、このコンサートもそのひとつである。

まずシューベルト。この交響曲第3番は目立たないが、愛らしい作品である。静かだが明るい序奏は一気に音楽を聞く喜びに浸してくれる。クラリネットによる主題が、平凡だがとても印象的である。第2楽章でもその木管楽器が大活躍する。春に聞くのに相応しい幸福感に満たされる。今年の4月は春というよりは初夏の陽気で、この日も最高気温は25度に達している。新緑の季節を先取りするかのような曲と演奏が、よくマッチしている。下野と日フィルはこの30分足らずの曲を、とても軽やかに演奏した。自然に音楽が良く鳴っているが、これがなかなかプロフェッショナルだと感じるものだった。

飽きの来ない若き日のシューベルトの演奏に幸福感が満たされ、後半のブルックナーへの期待が高まる。ここで、これまでに聞いた同曲の演奏を振り返ってみようと思う。まず最初に第3番の実演を聞いたのは、それほど古くはなく2016年、マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団による演奏だった(第836回定期演奏会)。東京文化会館の3階席脇という場所で聞いたにもかかわらず、これが非常な名演で私の脳裏に焼き付いている。この時の演奏は「ノヴァーク版、1873年初稿」というもので、ワーグナーに献呈されたもっとも最初のものである。

私は、ブルックナーについてまわる「版の違い」の細部にまで立ち入った聞き方をするまでには、ブルックナーを聞きこんでいない。しかしこの第3番に関しては、解説書によると実演に漕ぎつけるまで大変な苦労があったようで、改訂を加えに加えた結果、ようやくいま最も演奏される版になった、とのことである。その最もよく演奏される版というのは「ノヴァーク版、1889年第3稿」というものである。

2度目に2019年にこの曲を聞いた時、その演奏はこの「1889年第3稿」だった(パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団、第1916回定期公演)。この演奏も私の感動を大いに誘い、もはやこの曲はこれで決まり、とさえ思った。今後、この演奏を超えるものに出会えることはないと思ったのである。

ところが今回、下野が取り上げた演奏は、上記のいずれとも異なる「ノヴァーク版、1877年第2稿」というものだった。それぞれの演奏を再度聞いて比較することができないが、偶然にもそれぞれ異なる版で聞いたことになる。そしてこのたびの下野による演奏もまた、過去の演奏と甲乙つけがたいほどの感動を私にもたらした。それは、ほとんど完璧とも言えるほどのオーケストラの力量と、それをドライブする、自然で自信に満ちた指揮にあると言える。決して派手ではなく、気を衒った演奏ではないのだが、この演奏にはブルックナーを弾くのに必要な要素が詰まっていたと思う。

「ベートーヴェン第9の冒頭を思わせ」(プログラム・ノートより)るような冒頭から、それは感じられた。何かを生じさせるような、異様なものでは決してない。ただそれが鳴り響いているというだけで感じるブルックナー音楽が、次第に膨れ上がっていく、まさに自然空間のさま、それが会場を満たしたのである。以降最後まで、この外連味のない、作為を感じさせないリズムとメロディーが、まさにブルックナーの音楽らしいと思わないことはなかった。

「劇的な終結部が加わる」第3楽章のコーダでもそれは同様で、いわば職人的、玄人好みの演奏と言えようか。オーケストラは対向配置で、左手に第2バイオリン、右の奥にコントラバスを配している。弦楽器の艶のある重厚感もさることながら、管楽器のアンサンブルがこれほどにまでうまいと思ったことはない。このコンサートの模様は(前日の4月12日のものかもしれないが)ビデオ収録され、アーカイブ配信されるようである。私はこの企画に大いに賛同したいのだが、2つの点で不満である。まず、配信期間がわずか1か月と短いこと、そして料金が1公演1000円と高いことである。

今後、アーカイブ配信特典をチケットに含めることはできないものだろうか(特に定期会員)。また有料であるなら、配信期間はそれこそ永久でもいいのではないかと思う。例えばどこかの音楽ストリーミング配信プラットフォームと提携して、その会員であれば見放題といったことにならないか、と思う。それこそ全世界に無数に散らばる音楽コンテンツの中で、一定時間その演奏に耳を傾けることは、よほどのマニアでない限り、しなくなってきている。であればこそ、つねに気軽に体験できる状態を長く続けることが(そのコストは非常に小さい)、音楽家にとってもリスナーにとっても有益であるのは確かなことだ。

そういうわけで、この演奏を1階席後方で聞いた私は、このアーカイブにより再度演奏を楽しみたいと思っているのには理由がある。当日は少々体調が悪く、こちらの集中力が維持できなかったからだ。演奏は名演なのに、それにライブで接している自分がもどかしかった。音楽は一度きりの芸術である。どんなに足の悪い老人でも、難聴や盲目の方でも、コンサート会場へつめかける(実際、そういう人を良く目にする)のは、得難い経験を共有するためである。私もまた、体に鞭を打って会場に出かけた結果、とても素晴らしい演奏に出会うこととなった。現代の技術により、これを再生する機会を持つことができるのは、嬉しいことである。

鳴りやみかけた拍手がいつのまにか再燃し、指揮者はソロ・カーテンコールとなったようだった。私はすでに会場をあとにしていたが、最近はこういうコンサートによく出会う。それもみな演奏が素晴らしいからだろう。実感として、特にコロナ禍以降には名演奏に出会う確率が大きく増しているように感じている。だから、今後のコンサートにも目が離せない。今日聞いた3つの版によるブルックナーの交響曲第3番を、もう一度ディスクで聞いてみようと思っている。

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