「ぶらあぼ」というサイトがあって、ここには我が国で開催されるすべてのクラシック音楽のコンサート情報が掲載されている。日付や会場、それにジャンルを絞って検索もできるので便利である。5月12日の午後は何の予定もない。もらったチラシにも、この日のコンサートのものはなかった。そこで「ぶらあぼ」(https://ebravo.jp/)へ行き、日付を指定して検索を実行してみたところ、たちどころに多くの公演がヒットした。その中に私の好きなギターリスト、パク・キュヒ(朴葵姫)のリサイタルがるではないか。場所は紀尾井ホール。あまり好きなホールではないが、こじんまりとした曲を聞くのは悪くない。
当日券もまだ残っていることが判明し、ローソン・チケットか何かで予約して出かけた。プログラムは、最近リリースされたバッハなどバロックの曲を中心としたもので、後半にはバッハを敬愛していた南米パラグアイの作曲家、バリオスの作品も登場する。
- D.スカルラッティ:ソナタニ短調K.32、ニ長調K.178、イ長調K.391
- J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調BWV1005
- J.S.バッハ:前奏曲・フーガとアレグロ変ホ長調BWV998
- バリオス:最後のトレモロ、大聖堂
- J.S.バッハ:シャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV1004より)
韓国と日本で育った彼女は、数々のギター・コンクールで優勝した実績があり、その目覚ましい活躍はすでに15年以上前から続いている。私もアルバム「スペインの旅」というものを聞いて感銘を受け、すでにこのブログでも取り上げた(https://diaryofjerry.blogspot.com/2020/07/g.html)。
パク・キュヒの演奏の特徴は、その音色のやさしさにあるように思う。これは主観的な感想に過ぎないし、他のギターリストに詳しくもないので、間違っているかも知れない。おおよそ韓国の文化は日本のそれより大陸的で、激情的であることが多い。しかし彼女の表現は、決して過激でもなければ鷹揚でもない。むしろ繊細でとても静かに心に響く。
もともとギターという楽器は音量が小さく、その前身ともいうべき楽器リュートがバロック以降に消えていったように、ギターという楽器のために書かれた曲は少ない。音楽の規模が大きくなり、演奏会場も広くなっていくにつれて、流行らなくなってしまったのだろう。しかしギターの魅力は、その繊細なセンチメンタリズムにある、と私は通俗的に考えており、クラシックだろうがポップスだろうが、ギターの魅力を感じさせる曲は綿々と続いていった。20世紀になってギター曲を作曲したイベリア半島の作曲家や演奏家を中心に、ギター曲の見直しがなされたのではないか。その最大の功績者が、スペインの伝説的なギタリスト、アンドレス・セゴビアだった。
ギターの活躍する音楽は、ファリャやグラナドスなどのローカルな作曲家にとどまらず、バッハやスカルラッティのようなバロック音楽をギター曲に編曲して演奏することによって、大きく広がっていった。今回パクがリリースした作品集「BACH」も、彼女が満を持して演奏したこれらバロックの作品が収録されている。今回のコンサートも、まずはD.スカルラッティのソナタ3曲から始まった。
私の座席は当日の朝に買った特には指定されていなかった。こういうことは初めてで、ぴあなどでは通常座席を指定して買う。座席をおまかせにしても、決済時には座席の位置がわかるのが通常である。ところが今回は違った。これは異常なことである。当日に窓口で「整理券」をチケットを交換したところ、私の席は何と前方中央という大変いい席だった(座席はどの位置も均一料金だったことを考えると、これは大いに幸運だったと言える)。しかも左隣は空いており、右隣の女性も演奏が始まる直前に前に席に移動した。こんなに前なのに、両隣が空席というのは誠に嬉しい。そういうわけで大変望ましい状況で始まったコンサートだったが、スカルラッティの3曲が終わった時にある大きな男性が入って来た。
彼は、私の隣の席の女性が移動した先の座席の客だった。しかし係員に誘導されて入場した彼の座席は、すでに彼女によって占められていたため、誘導員は仕方なく彼は彼女の元の席、すなわち私の座席に座るよう勧めた。そもそもコンサートには遅れてくる方が悪いのであって、彼女に悪気はない。しかし私にとっては大いに迷惑な話であった。あろうことか、彼は悪臭を放っていたからだ。
そういうわけで、次のバッハの無伴奏ソナタ第3番は、私にとって最悪の状況下でのコンサートとなった。こういうことがあるから、やはり演奏会というのは難しい。もしかすると無理して出かけなかった方が良かったのだろうか。集中力も欠き、演奏はおそらく素晴らしいのに、私は楽しめる状態ではなかった。私のまわりにいた方々も同様に感じたのではないだろうか。
これには続きがあった。前半終了時に彼はその移動した女性に声をかけ、後半のプログラムでは再び女性と座席を交代したのだった。そのことによって私は悪臭から解放された。後半のプログラムは、そのようにして再び私は深遠なギターの世界に戻ることになった。彼女のギターに当たる光が、演奏する際のゆらぎに合わせてこちらに反射する。その自然の光の美しさに見とれながら、耳はバリオスの音楽を浴びている。バロック音楽のどちらかというと形式的な音楽の枠を解き放たれ、さすがに20世紀の音楽は表現が多彩である。
バリオスの演奏が終わった時点で彼女はマイクを取り、今回の演奏に寄せる思いを語った。ギターリストにとってバッハの作品は、初期の頃から学習するが、おいそれとは演奏できない至高の作品である、というような意味のことを語った。彼女は満を持して、続く「シャコンヌ」を演奏した。
ヴァイオリンで聞くオリジナルの「シャコンヌ」も、無伴奏ソナタとパルティータ中最大の聞き所である。10分を優に超えるその長さと宇宙的な広がりは、聞き手を魅了してやまない。それをどうやってギターで表現するか。弓の長いヴァイオリンは、音を長く響かせることが可能である。しかし同じ弦楽器でもギターは、一度はじくとその音はたちまち減衰していく。これはピアノでも同様である。しかしギターで聞く「シャコンヌ」はまた、もしかしたらギターのために作られてのではないかとさえ思えるほどの魅力を放っていることを私は発見した。
演奏が終わって再びマイクを取った彼女は、「シャコンヌ」の余韻に浸るべくアンコールに何も演奏しないことも検討したという。しかし悩んだ末、バッハを尊敬していたもう一人の作曲家、ヴィラ=ロボスのプレリュード第3番を演奏することにした、と話した。このようにして、1時間半に及ぶコンサートは終了した。今にも雨が降り出そうかというような陽気の中を、赤坂見附を目指して紀尾井坂を下った。
そういえば私はギターのリサイタルとしては、人生2度目である。1回目は彼女の師匠でもあった福田進一で、大阪・中津にあるごく私的なコンサートに母の紹介ででかけたのである。こじんまりとしたカジュアルなレストランのようなところで開催された演奏会には、まだ駆け出しの頃だったこともあって、その取り巻きのような方々か詰めかけていた。音楽家が有名になるには、いろいろ難しいことも多い、と思った。彼は発売されたCDにサインをして渡してくれたことを思い出した。
思いがけず行くことになったパク・キュヒのリサイタルは、全国各地と韓国で順に行われるとのことである。
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