2024年7月16日火曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第762回定期演奏会(2024年7月12日サントリーホール、広上淳一指揮)

日フィルの定期会員になって最後のコンサートに出かけた。7月12日のプログラムは、前半にリゲティのヴァイオリン協奏曲、後半にシューベルトの「グレート・シンフォニー」、ヴァイオリン独奏に米元響子、指揮が広上淳一である。

リゲティのヴァイオリン協奏曲は見るからに難曲だが、この曲を実演で聞くのは昨年の3月に続いて2回目である。この時の独奏はモルドバの奇才パトリツィア・コパチンスカヤで、その演奏は聞くものをどこか違う世界に導くような演奏(というか演技)だった(https://diaryofjerry.blogspot.com/2023/03/)。昨年はそのリゲティの生誕100周年だったこともあってこの曲がしばしば上演されることとなったようだ。今回の米元響子による演奏もまた、以前から計画されていたとのことである。しかしコロナ感染症の影響で中止されてしまった、と開演前のプレトークで広上は語った。

米元響子は数々のコンクールに入賞した桐朋学園出身のヴァイオリニストで、現在はヨーロッパで生活しているようだ。その彼女が今回の演奏を希望したのは、すでにこの曲を熱心に練習し、初演したヴァイオリニスト、サシュコ・ガヴリロフにまで教えを乞うため、わざわざ出向いて行ったということのようである。そういう事情を知った広上は、この曲の演奏がすこぶる難しい曲であるにもかかわらず、再度プログラムに載せることにしたと話した。そしてあの自由奔放な第5楽章のカデンツァは、この初演時のガヴリロフのものを弾くとの触れ込みだった。

舞台に多数の打楽器と、まるで室内楽のような必要最低限の弦楽器の椅子が配置されていた。そこへ係員がとても分厚く、しかも譜面台を大きくはみ出すほど大きな楽譜を持って現れ指揮台に置いた。やがて木管楽器奏者が出てくると、彼女はわざわざ3つの楽器(2種類のクラリネットとリコーダー)を見えるように最前列を回って着席。特徴的な楽器として、このほかに3つのオカリナやホイッスルまで登場する。

米元のヴァイオリンが、まるでチューニングのように始まった時に、その音色の豊かさに驚いた。さらには広上の指揮が、この曲を知り尽くしているかのように自然にこなれているのを見て、昨年聞いた時の印象と随分違うことに気が付いた。まるで別の曲を聞いているようだった。いやむしろ昨年のコパチンスカヤは、その派手な衣装や振舞いに目を奪われて、音楽そのものへの集中力を欠いていたのかも知れない。音楽の表現は、このように多彩であり正解がない。

ミニマル音楽のような第1楽章、暗い第2楽章、奇妙な感覚にとらわれる第3楽章と進む間、私はしばしば襲われる睡魔に出会うことはなかった。それどころか、この1990年に作曲された現代作品が、すでに聞き古された音楽のように思えてきたのだった。ユダヤ人として家族の多くを収容所で失ったリゲティの音楽は、決して楽しいものではない。かといって陰鬱、あるいは厭世的といった常套的形容詞で語られるような単純なものではなく、どこか無機的に響きながらも時に鮮烈である(第4楽章のエンディング)。このような不思議な感覚は、変則的な調弦や分散和音といった音楽技法を駆使した結果で、独特の浮遊感や無常観を表現することに成功している。

30分ほどの曲の最大の見せ所は第5楽章のカデンツァだが、ここでの米元は実に鮮やかだった。いや彼女の独奏は全体に亘ってとても落ち着いたもので、広上のサポートに支えられて見事な完成度だったと思う。まるで弾きこなした曲のように軽々と演奏し、聞きならされたように聞こえ、古典作品のようでさえあった。会場は5割ほどしか埋まっていなかったように思われたが、盛大な拍手に応えて彼女は、クライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ」を演奏した。聞いた席が良かったからかも知れないが、音楽がとても豊穣に聞こえた。米元のヴァイオリンは、とても聞きごたえがあると思った。

休憩時間を挟んで演奏されたのは、シューベルトの大ハ長調、いわゆる「グレイト」と呼ばれる交響曲である。この作品は「天国的に長い」と言われる。どういう意味だろうか。私はまだ天国というところに行ったことがないのでわからないが、まるで天国にいるように幸せな時間が長々と続くという意味だと考えている。今一つの解釈は、天国というところが退屈なところだとするものだが、私はこの曲を退屈だと思ったことがない。いや演奏によるというのが正しいが、いい演奏で聞くと「いつまでも聞いていたい」という錯覚に捕らわれる。どちらにも成り得る要素を秘めた曲だから「天国的」と言ったのだろう。さすがシューマンである。

さて私は、これまでサヴァリッシュ指揮N響の名演でこの曲に開眼し、ミンコフスキのリズミカルな演奏で「グレイト・シンフォニー」の大ファンになった。以来、機会があるたびに演奏会に足を運んでいるが、ベートーヴェンの「田園」のように、誰がどう演奏しても素晴らしい曲として、この「グレイト」を挙げることができる。そしてこのたびの広上淳一による演奏は、このかつての名演奏に勝るとも劣らない感動を私にもたらした。第1楽章の冒頭から丁寧で確信に満ち、決して細部をおろそかにしない真面目な指揮は、一見ひょうきんな姿に見えることも多いが、今日の演奏からはそう感じることは少なく、むしろどの一音をとってもこうでなければならないという音へのこだわりが、逐次追及され、実現されてゆくまさにその有様が目の前に展開されていくのだった。

第1楽章のコーダでテンポをぐっと落とし、大見得を切ったかのような作戦に出たことが良かった。オーボエとクラリネットを代表とする管楽器の安定感も絶賛したい。ホルンのふくよかさや弦楽器の豊かな響きは言うに及ばない。それが第2楽章の中間部で鳴り響き、突如訪れる休止。私がブルックナーのさきげけを感じるのはこの瞬間である。

もっとも嬉しかったのは第3楽章のトリオ。ここを丁寧に、できれば少し速度を落としてロマンチックに演奏して欲しいと私はかねがね思っている。クラウディオ・アバドの演奏が、意外にも丁度いい感じで気に入っている。いや本当はもっとゆったりと演奏してもと思うのだが、あまりにやりすぎると大時代的過ぎてしまうのだろう。そういうわけで、感情過多になる一歩手前であることが望ましいのだが、今回の演奏はまさにそのような感じで、この曲がいつまでも鳴っていて欲しい、とまさにそう思ったのである。

おそらく繰り返しを省略していたが、それでも1時間にも及ぶ演奏が終わった時、もうくたくただよ、言わんばかりに少しふらつきながら退場する指揮者に、惜しみない拍手と歓声が送られた。たっぷり2時間のコンサートが終わった。これで今シーズンの演奏会がすべて終わった。梅雨末期の大雨が降るアークヒルズを抜けて家路を急ぐ。公私にわたって忙しかった週末のひととき、ひさしぶりのコンサートが私の心を癒してくれた。

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