2024年11月25日月曜日

チャイコフスキー:交響曲第2番ハ短調作品17「小ロシア」(ロリン・マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団)

合唱に親しんだ人なら、ロシア民謡「母なるヴォルガを下りて」を知っている人は多いだろう。チャイコフスキーの交響曲第2番第1楽章は、この有名なメロディーから始まる。

いつもは北へと向かう東北新幹線でこのブログの文章を書くことが多い。だが今日は違って東海道新幹線である。今年は11月に入っても20度を超える日があるなど、異例の天候が続いているが、それでも立冬を過ぎると次第に冬らしくなり、今日は朝からどんよりと曇り、その雲の合間からのぞく日差しもどこか寂し気である。この時期に聴きたくなる曲がロシア音楽である。新横浜を過ぎ、ひとしきり社内アナウンスが終わった頃から、チャイコフスキーの交響曲第2番を聴き始めた。

第2楽章を過ぎて三島駅を通過した。雲の上に頭だけを露出させた富士山の頂に、うっすらと雪が積もっている。今日はこの後、東海道五十三次を藤川から岡崎まで歩いた後、豊橋に戻って新幹線に再び飛び乗り、神戸から船に乗って九州へと向かう。門司、小倉をしばし観光、博多で一泊した後は、朝のフェリーで壱岐へ向かう予定である。目的地まで3日がかりで出かけ、壱岐では原の辻遺跡をはじめとする観光地をくまなく見て回り、発祥の地と呼ばれる麦焼酎とともに、地元で取れた鮮魚に味わう3泊4日の一人旅の幕開きである。

チャイコフスキーの交響曲第2番はこじんまりとした印象を残す曲である。副題に「小ロシア」と付けられているのは、この曲にウクライナの民謡が取り入れられているからである。舞曲風の民族的旋律が第4楽章などは全体に鳴り響いて、抒情的で美しい旋律の魅力に溢れており、案外気さくに楽しめる。だが、その親しみやすさの割にはあまり演奏される機会はなく、録音の数も少ない。かちてから名演の誉れ高いカラヤンの演奏も、第1番から第3番までの3曲は、わずか1種類が残っているだけである。第4楽章のコーダ近くで印象的なドラの音が鳴って、静岡駅を通過。華やかなうちに音楽が終わった。

解説によれば、交響曲第2番に流用されている民謡は3曲ある。まず第1楽章は有名な「母なるヴォルガを下りて」。ヴォルガ川はモスクワ郊外に源を発し、ロシア・ヨーロッパ領を南に流れてカスピ海へと注ぐヨーロッパ最長の川である。ソ連邦の時代、NHKが「ボルガを下る」というドキュメンタリーを放送したことがあった。鉄のカーテンの向こう側を取材した映像が流れることは極めて稀で、私は番組をとても興味を持って見た記憶がある。もう放送の中身は忘れたが、これがいつのことだったかと検索して調べてみると、1978年頃であることが判明した。私は当時11歳だった。

この時の取材班がまとめた著作が、中古で手に入った。水源からカスピ海のデルタ地帯まで、撮影の厳しかった当局との交渉の様子など、取材時のエピソードが満載のこの書物は、知られざるソビエトの内側を記録したものとして興味深いが、私としてはやはり番組を再度見てみたい。でもその可能性は少ないだろう。ボルゴグラードの岸辺で日光浴をする住民の姿や、広い河川を行き来する観光船、そしてキャビアの産地であるカスピ海のチョウザメ漁の映像など、子供の頃に見たテレビ番組が思いのほか明確に残っている。

第2楽章の中間部はウクライナ民謡「回れ、私の糸車」という曲が引用されているらしい。この楽章は全体にこじんまり、冒頭からティンパニがボンボンとリズムを刻む遅い行進曲風の静かな曲である。親しみやすく味わい深い。そして第3楽章はスケルツォ。祝祭的で豪華な第4楽章は、ウクライナ民謡「鶴」という曲が引用されてるそうだ。ここだけ聞くと、何かバレエ音楽を聞いているような気がしてくる。全体的に明るく、楽天的な行進曲は第4番以降の深刻な作品とは一線を画す。親しみやすいと言えばその通りなのだが、深みに欠けるきらいはある。

このたびこの曲を聞くに際して、いまさらカラヤンでもないなと思い、いろいろ探して見つけたのがロリン・マゼールによる2度目の録音だった。演奏はピッツバーグ交響楽団である。テラークの録音が隅々まで明瞭で、職人的な指揮と組み合わさって曲の輪郭を映し出す。

2024年11月12日火曜日

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交響曲を作曲し終えた後のことで、つまりは最後の管弦楽作品ということになろう。

しかし私は何と、この曲を最初のブラームス作品として実演で聞いている。ズビン・メータがイスラエル・フィルを率いて来日したコンサートにこの曲があったのだ。当時高校生だった私は「学生券」というのを買って大阪フェスティバルホールの最後部の座席を確保したが、小遣いも少ない時期にこの出費は大きかった。私はいっときも無駄にしないようにと、予め曲を聞いて親しもうとした。当時、我が家のレコード・ラックにこの曲を収録したレコードはなかった。こういう時、FM雑誌などを参考にNHKで放送される音をカセット・テープに録音するしかなかった。

ところが嬉しいことにこの曲が放送されたのだった。私がテープに収めたのは、ダヴィド・オイストラフとムスティスラフ・ロストロポーヴィチが独奏を務める決定的な録音で、伴奏をジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が務めている。そもそもあまり録音の多くない曲にあって、この演奏は最高の評価を得ていた。そしてこの曲は、この2人の独奏にさらにスヴャトスラフ・リヒテルが参加してベートーヴェンの三重協奏曲をカラヤン指揮ベルリン・フィルと競演した演奏と並んで、当時のソビエトの知られざる巨匠が西側のオーケストラと競演した歴史的なものとして燦然と輝くものだった。

ところが私がこの曲を聞いた時の印象は、何ともパッとしない曲だということだった。そもそもヴァイオリンとチェロという楽器が競演したところで、いずれもがオーケストラの中に埋もれてしまい華やかさを欠く。そればかりかブラームスの何とも地味な音楽が続き、一体どこをどう聞いていいのかさっぱりわからない。私がエアチェックした録音も、あまりいい音質とは言えないのも事実で、30分余りの短い曲だったから何度も聞いたが、何度聞いても結果は同じ。どうもつまらない曲を聞く羽目になるという予想が変わらないまま演奏会当日を迎えたのである。

2人の優秀な独奏者を必要とする曲なので、あまりコンサートに上ることもない曲でもある。何か記念になるようなコンサートで取り上げられることが多い。しかしイスラエル・フィルの来日演奏会では、ヴァイオリンとチェロのソロをそれぞれの首席奏者が務めた。コンサートは後半の「春の祭典」に圧倒されて思い出に残るほど感動的だったが、この曲自体は何かつまらない曲であるという印象は変わらなかった。

その後、私は一度も実演でこの曲に接してはいない。CDは上記の2曲を1枚に収録したものを購入し、たまに聞いてはみたがどうもしっくりこないという印象はぬぐえず、そうこうしているうちに何十年もの歳月が流れた。「対立」と「和解」がこの曲のテーマであるという。私もそろそろこの曲と和解をしようと、久しぶりに聞いてみることにした。こういう場合、できるだけ新しい演奏で聞くことが経験上肝要である。録音が新しく、演奏もできれば若い人のがいい。そして見つけたのが、フランスのカピュソン兄弟が独奏を務める一枚だった。兄弟はそれぞれヴァイオリンとチェロの名手だから、この曲にはうってつけである。録音は2007年、新しいとは言ってももう17年も前のことではあるが。

まず驚くのは、曲が始まって最初のフレーズがオーケストラで大きく鳴ったかと思うといきなり2つの楽器による独奏が続くことである。これはいきなりカデンツァとなる珍しい曲なのだが、ここでのチェロはピチカートもあったりして何か奔放な感じである。しかしテーマそのものは陰鬱な感じで、気持ちが晴れない。ブラームスは北ドイツの生まれだが、この曲はスイスで作曲されている。しかし彼の音楽は、どこか地の底から隆起してくるようなエネルギーが、そのまま爆発しないか、しても粘性の噴出をするようなイメージである。

だが第2楽章は牧歌的なメロディーで、牧草地帯のスイスを思わせなくもない。総じて明るく伸びやかである。一方、第3楽章になると、まずチェロが印象的な旋律を奏で、ヴァイオリンが反復する。そしてオーケストラが力強くこれを繰り返す。このメロディーだけを覚えて、コンサートに出かけたことを思い出す。以降、このユダヤ的?なメロディーが様々に形を変えて進む。

さすがに聞く方の私も歳を重ねて、とうとうブラームスがこの曲を作曲した年齢を過ぎてしまった。そう考えると感慨深いものがあるが、たしかにいぶし銀のような曲で、秋の夜長に静かに聞くにはいいかも知れない。特にこのカピュソン兄弟による演奏は、意外にもスッキリとしてい点で、ともすればこの曲が粘っこくなりすぎるのを防いでいる。だが私は、この曲の後半に収録されているクラリネット五重奏曲の方が、もっと良く聞きたくなるいい曲に思えてならない。

2024年11月2日土曜日

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品14(P: アルフレート・ブレンデル、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

例年になく高温の日が続く今年。それでもさすがに11月ともなるとようやく秋が深まって来て、今日は朝から雨が降り続いている。すっかり日も短くなり、夕方になると肌寒く感じる。私がブラームスを聞きたくなるのは、そういう季節である。だがこのブログでは、これまであまりブラームスの作品を取り上げてこなかった。別に避けていたわけではないが、人気ある作品となるとそれを語る人も多く、おいそれといい加減なことは言えまいとの気持ちがもたげ、そうでなくてもずっしりと重い重厚感のある音楽が、私を駄作文から遠ざけていた、という気がしている。

しかしブラームスの若い頃の作品は、若さゆえの野心と情熱に満ち、それでいて十分に内省的、ロマンチックである。交響曲を作曲し始めたのが遅かったので、とりわけそのような作品は忘れられがちであるとさえ思われる。その若い頃の作品、ピアノ協奏曲第1番が作曲されたのは1854年から1857年にかけてで、1833年生まれのブラームスの20代前半の作品ということになる。しかしこの曲は、晩年の作品に劣らず深い味わいを持っている。いまでこそ私にとっては、ピアノ協奏曲第2番がもっとも好きなブラームス作品となっているが、私も若かったころは、第2番の魅力よりも躍動感とエネルギーに溢れた第1番の方が好きだった。

ピアノ協奏曲第1番は長い。演奏時間は50分に達する。その壮大な音楽はむしろ交響曲と呼んだ方がいいくらいで、実際この曲は「ピアノ付き交響曲」といわれるくらい(第2番もそうだけど)、実際一時は交響曲として筆が進められた。初演時は退屈だと批判されたようだが、第2番よりも録音されたディスクは多いのではないだろうか。

その名演ひしめくあまたのディスクの中で、何が一番心に残っているかと言われれば、やはり(ほかの曲でもそうなのだが)最初にこの曲に親しんだ演奏ということになる。私の場合、それはアルフレート・ブレンデルによるものであった。競演しているのはクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル。1986年フィリップスによる録音である。この組み合わせは1992年に来日し、私も生まれて初めてベルリン・フィルの演奏を聞いたときの思い出にもなっている。当時、アバドはベルリンの音楽監督にカラヤンの後継として就任したことで、さらに世界の注目を集めていた頃である。

第1楽章は荒っぽい音楽である。私はこの曲を初めて聞いた時、ブラームスのピアノ協奏曲なるものが一体どのようなものであるのか想像がつかず興味津々だったが、この第1楽章を聞いて、ずっしりとしたブラームスのオーケストラの音色と、華やかな音色のピアノが、溶け合うというよりも妙な化学反応を起こしているような音楽だと思った。だが不思議に印象は深く、何度も聞いてみたいと思った。それにくらべると第2番などはもっと長いし静かな感じで地味だと思った。程なくして私はもっぱら第1番を聞くようになった。

ブレンデルの録音は、当時の最新録音のひとつで大変充実したものである。ベルリン・フィルの演奏も目立ちすぎず、かといって控えめでもない。どちらも、そしてその競演も丁度いい塩梅である。その真骨頂は第2楽章で示される。はじめはよくわからないと思いながら聞いていた緩徐楽章も、歳を重ねるごとに理解が進んだというのもおかしな話だが、何かつぶやくような静謐な音楽がそっと心に響く。今回はイヤホンでストリーミングを聞いているのではなく、CDプレイヤーをアンプにつないで2台のスピーカーを鳴らしている。そのようにして聞くアダージョの美しさは比類がない。

第3楽章はピアノとオーケストラががっぷり四つに組んだ素晴らしい曲で、聞き進むうちに熱も帯びてくるものの、美しさを邪魔するわけではなく、その絶妙なバランスがとても素敵である。この曲の初演が不調に終わったのが理解できないほどだが、確かにクラシック音楽というのは、一度聞いただけではわからないくらいに難しいのは事実である。音楽は基本、ライブで楽しむべきものと思っている私も、ディスクで聞くことにも別の大きな価値を見出すべきだと思っている。

それにしても、秋の夜長に耳を傾ける落ち着いた時間が妙に懐かしい。この曲を聞いていると昔、CD一枚一枚を購入しては何度も聞いていたころが蘇ってきた。そういえば今年は息子が大学生になって家を出て行き、私はひさしぶりに自由な時間を取り戻した。それでもここまでの半年はいろいろ慌ただしく、しかも夏の猛暑に体も不調を極めた。環境の変化により、もぬけの殻のように何もする気が起きなかったこの夏を経て、ようやく音楽にでもゆったりと浸ってみるきっかけになればいいと思った。

ブラームス:「悲劇的序曲」ニ短調作品81(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ブラームスの2つある演奏会用序曲はほぼ同時期に作曲された。片方が「悲劇的序曲」なら、もう片方の「大学祝典序曲」は喜劇的作品(ブラームス自身「スッペ風」と言った)である。ブラームスは丸で喜劇的傾向を埋め合わせるかのように「悲劇的」を書いた。「喜劇的」(笑う序曲)の方は必要に迫られて...