2013年3月22日金曜日

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」(2013年3月20日新国立劇場)

東京の桜は早くも五部咲きで、真冬から一気に春がやってきた。寒暖の差は例年になく大きく、私も体調をとうとう崩してしまった。前夜から微熱があって食欲がない。普通であれば養生を決め込むしかないのだが、ゼッフィレッリの演出する「アイーダ」など、一生のうちで見られるとしても1回あるかないか、そうであるなら万障を繰り合わせてでも行くしかない。たとえ仕事を休むことになったとしても、これを見逃すことはできない。新国立劇場開館15周年記念公演ということもあって、全公演全席売り切れである。違う日のチケットを買い直すことも、もはやできない。

ヴェルディの「アイーダ」を観るという時には、実は私はいつも何かとても重いものを感じる。古代エジプトが舞台のこのオペラは、壮大で歌も美しく、見応えは十分なはずだが、音楽は複雑で重々しく、何か後期のヴェルディの迫力がどどっと押し寄せて来る感じがする。高い山に登るときのような体力の覚悟が、果たして自分にあるのかと問われているような気がしてならない。そこにゼッフィレッリの絢爛豪華でこれでもかと言わんばかりの演出によって、カロリー過多な料理をフルコースで出されるような感じである。

幕があくと、おおこれか、と溜息がでるようなエジプトの神殿が眼前に広がった。薄いヴェールを被ったような、全体に曇りがかったような舞台は、砂漠の砂埃が舞っているという感じを上手く表している。黄色がベースの照明は、新国立劇場の良く動く装置には少し地味なくらいに古典的ではある。

ラダメスは登場していきなり「清きアイーダ」を熱唱するが、テノールのカルロ・ヴェントレは今日一番出来が良かったキャストである。ブラボーが飛び交って拍手が一時収まりかけたが、もう一度熱狂的な拍手に包まれる。

アイーダ役はアメリカ人のラトニア・ムーアで、初来日の舞台と紹介されていた。メトで代役をこなした実力派の歌声は、細くもなければ野太くもなく、芯があって美しく安定している。エチオピアの王女という存在感は舞台上でもよくわかり、私には大変良いと思わせた。そのアイーダの「勝ちて帰れ」は、第1幕最大の見どころで、進むに連れて舞台が暗くなって行き、天井からの赤い照明が彼女のみを照らしだすとやがてその光も歌声とともに消えるように失われていった。

本公演では休憩が3回あった。舞台の転回に時間がかかるのだろう。第2幕の凱旋のシーンもある見応えある部分は、これでもかこれでもかと何百人もの人々が入れ替わり立ち代わり、舞台に出ては消える。全部で十人以上はいたと思われるアイーダ・トランペットとバレエ団、その見事な踊りは見応え充分。ミヒャエル・ギュットラー指揮する東京交響楽団も、十分な出来栄えで音楽をグイグイと引っ張る。馬が2頭も出てきて戦利品の行進に驚きを与え、最後にはアモナズロを含む捕虜が舞台上に現れた。私はアイーダを実演で観るのはこれが2回目に過ぎないのだが、ゼッフィレッリの演出はさすがに見応えがあった。

興奮も冷めやらぬうちに第3幕となった。ここからの「アイーダ」は、前半の派手なシーンとはまた別の、深く充実した場面へと変わる。舞台はナイルの河畔で、一艘の舟に乗って神殿に到着。何かお伽話のような感じだが、まあそれは良しとして。アイーダの父、エチオピア王アモンズロ(バリトンの堀内康雄)はアイーダに、戦略上の機密をラダメスから聞き出せと迫る。祖国と愛との間に苦しむアイーダの、葛藤に満ちた場面は、このオペラの隠れた名場面だと思う。

第4幕になると「アイーダ」はさらに熱を帯びた展開となる。ラダメスが裁判にかけられて死刑となるシーンである。ここでの最大の聞き所はもう一人の主役、アムネリスである。この役はメゾ・ソプラノのマリアンヌ・コルネッティによって歌われた。そもそもこの役は低くて嫉妬深い歌唱によるものが多く、トロヴァトーレのアズチェーナのような悪役だと、これまでの私は思っていた。アイーダとの愛があまりに純粋なため、ともすればそれを邪魔する悪女という固定観念があったのだ。だが今回の上演を見て、アムネリスもまた一途な女性であった。彼女は彼女なりにラダメスを愛し、そして自らが下した決断が結果的にラダメスを死に至らしめることに気づくが、どうすることもできない。そのあまりに深い苦悩が、見事に歌われた。少なくともこの上演でのアムネリスの、もっとも大きな聞かせどころはこの第4幕であることをコルネッティは心得ていた。アムネリスの悲しさが伝わってくる演技は、私に「アイーダ」のまた一つの発見をもたらした。

第2場でいよいよ舞台は上下に動き、牢屋に生き埋めにされたラダメスが、ひそかに忍び込んだアイーダと出会うシーンとなった。そんなことがあろうかといつも思うが、ここは泣かせるシーンである。2重唱がやがては地上のアムネリスとハモって3重唱となり、天国的な美しさの中で昇華してゆく。ゼッフィレッリの演出は、特別奇抜なところはないが、従来の演出上の最も完全で美しいものを私たちに惜しみなく提供した。祈りにも似た音楽が消え去っていくのと呼応して照明が消えて行き、最後に残った蝋燭の灯りまでもが遠い彼方へ消えて行く時、私の目には涙とともに揺れていた僅かなあかりまでもが徐々に霞んでいった。物音ひとつしない静かな舞台は、永遠に続いて欲しいとさえ思わせるような恍惚の中を、感動的な幕切れとなって終った。満場のブラボーと拍手の中を、何度もカーテンコールに呼び戻された歌手に惜しみない拍手を送った。このようにして、新国立劇場は、リバイバルされた「アイーダ」の好演の中に新しい歴史を刻んだ。

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