2013年3月10日日曜日

ヴェルディ:歌劇「リゴレット」(The MET Live in HD 2012-2013)

ヴェルディ中期の代表的傑作「リゴレット」は、ヴィクトル・ユゴーの原作である。だがこのたびのブロードウェイの演出家マイケル・メイヤーは、舞台を16世紀のイタリアから1960年代のラス・ヴェガスに移した。メトでは珍しい読み替え風の演出だが、原作の趣旨を曲げているわけではない。

そうするとなぜ時代設定を変更する必要があったのかという疑問が残る。これに対して一般的な評価は「現代人にも共感できる演出」ということだが、これはあまりにもありふれた低次元の言い訳だ。原作が持っているテーマの普遍性を考えてみれば、舞台設定を現代にする意味がわからない。そうでなくても十分に意図は伝わるし、そうしなかったことによって台無しになってしまった要素は計り知れない。

ここで好色家マントヴァ公爵のモデルは、フランク・シナトラということになっている。ラスヴェガスの街を牛耳り金や権力を欲しいままにしているという設定だ。だが、その悪徳ぶりがなかなか見えてこない。そして彼は本気でジルダを愛したのか、それとも最初から遊びのつもりだったのか。ここでの演出は後者を思わせた。しかし話の中身をよく考えれば、その二面性の中にこそ、この物語の重要なテーマがあるような気がする。

中世の価値観が色濃く残るイタリアの方が、現代の民主的アメリカより矛盾に満ちていたと考えられる。それゆえか登場人物がみな小粒にみえてしまう。服装が現代的であることにも原因があるかも知れない。彼らは普段目にするか、目にしなくても映画などでお馴染みの「悪役」程度にしか見えない。そして悪役にも憎めない要素があるという(原作がおそらくは持っているであろう)深みを表現しきれているとは思えない。

派手ではあるが考えられた斬新な舞台は、ネオンサインの輝くきらびやかなものだ。歌手はエレベータに乗って場面を行き来し、階数を現す電光掲示板が音楽に合わせて上下する。第1幕のギラギラなシーンよりもむしろ、第3幕の方が良かった。ジルダが犠牲になることを申し出て、殺し屋に身代わりに殺されるシーンでは、斜めに並んだネオン管がブリンクし、嵐の情景を演出する。だが、そのような派手さによって、より胸に迫るはずのジルダの自己犠牲の哀しみが、薄められてしまった。 呪いや裏切られてもなお愛を貫くジルダのセンスを、はたして現代人によくわかる演出によってより強く表現できたであろうか。

このような話題性のある演出を、あの保守的なメトがやってしまったということに新鮮さはあるかもしれない。そしてラスヴェガスという設定は、アメリカの劇場でなければ表現できなかっただろう。だが、それ以上のものを感じない舞台だった。にもかかわらず大きなブーイングもなく、むしろ好意的でかつ熱狂的な拍手喝采だったのは、ひとえに音楽が素晴らしかったからだろう。すなわち表題役のバリトン、ジェリコ・ルチッチと、ジルダを演じたドイツ人ディアナ・ダムラウ、それに「デューク」となってしまったマントヴァ公爵のピョートル・ペチャワである。ペチャワは悪の主役という感じではないが、これはマフィアも表に出るときには普通の人という感じである。ダムラウは第2幕幕切れの二重唱で、圧倒的な素晴らしさだった。

この3人に、さらに殺し屋のスパラフチーレを歌ったバスのステファン・コツァンと、その妹役のオクサナ・ヴォルコヴァを加えた5人は、いずれも欠点のないほどの出来栄えであった(特にコツァンの超低くて安定のある声と言ったら!)。指揮の若きイタリア人マイケル・メイヤーも、全く素晴らしいという他はない。この指揮者は、ルイージやネゼ=セガンらの常連指揮者よりも腕のいいものを持っているとさえ思われた。第1幕でジルダが初めて登場するシーン(ここではエレベータに乗って現れた)で、音楽が一気に躍動すあたりは、見事というほかない。

これだけの素晴らしい歌手と指揮者が揃った割りには感激が湧いて来なかったのは、やはり演出の問題ではないかと思っている。だが私は折からの春の嵐のせいで、やや花粉症気味であった。そのような体調に加え、年度末の超多忙な毎日が、このような作品を心から楽しむ余裕をなくしてしまっているからかも知れない。ただもう一度見たいか、と問われると少し疑問を抱く。

この指揮者と歌手で、できれば「椿姫」を見てみたいと思った。容姿もいいし歌声も充実している。ダムラウのヴィオレッタ、ペチャワのアルフレード、そしてルチッチのジェルモンという組合せがもし実現すれば、(残念ながらこの中にイタリア人はいないのだが)何とも素晴らしい「トラヴィアータ」になるのではないか、などと考えてしまった(このときは「フローラの館」はラスヴェガスにあってもいいかも知れない・・・)。

「リゴレット」はその「椿姫」や「イル・トロヴァトーレ」とならぶヴェルディ中期の代表作である。だがストーリーは実の娘を失うという行き場のない悲劇だ。どれほど美しい歌がつけられていても楽しく見ることは難しい。かつてビデオで見たシャイーの演奏は、パヴァロッティのマントヴァ公が圧巻で、しかもポネルの演出が天才的であった。4重唱のシーンは見るものを釘付けにし、最後は川の上で舟に乗って亡き娘を抱く。たった一度だけ見たにすぎないが、はっきりと覚えている。その時の驚きにも似た感動があまりに大きすぎたのかも知れない。

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