2014年11月17日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(The MET Live in HD 2014-2015)

初心者向けオペラの筆頭に挙げられる「フィガロの結婚」は、実際のところ理解するのが難しいオペラだと思う。登場人物が多いうえに、話が込み入っている。とはいえこれは、たった一日のドラマである。誰も死なない。話が喜劇であるということと、あの天才モーツァルトの音楽が親しみやすい、というだけの理由でこの作品がわかりやすいか、と言われれば、私の経験上、違うと言わざるを得ない。

モーツァルトの音楽は、確かに凄いが、それをそう感じるようになるには、他の作品にも触れる必要がある。そしてヴェルディもワーグナーも素晴らしいのに、なぜモーツァルトがそれにも増して素晴らしいのか、と言われて簡単に答えられるだけの音楽的知識を有している人はそう多くはないだろう。モーツァルトの音楽は、古典派のそれであり、この時代のオペラには長いセリフが混じっている。ドラマと音楽が融合したのちの時代から振り返ると、やはり地味である。

加えて時代設定が少し古めかしい。ロココの様式を残す舞台や衣裳は、貴族的な趣味を有しているが、それが徐々に古めかしくもなっていく市民社会が勃興する時代に入っていく。その違いを理解できるかどうか。つまり予備知識がいると思う。それにソプラノが少年役を演じるという、いささかエロチックな設定もやや混乱を生じさせる。

というわけで「フィガロ」が前提条件なしに、すんなりと心に響くかというと、これがまたやっかいなことにイエスである。それほどにまで音楽が素晴らしいからだ。一度聞いたら忘れられないメロディーがいくつも出てくる。が、その音楽ゆえに、ストーリーやその背後に含まれる物語のテーマが隠れてしまう。人間関係があまりに複雑に展開するので、どこで心理が変わるか、といったところは、地味な舞台と長いセリフを丹念に追う必要があるが、実際のところなかなかその余裕がない。

前置きが長くなったが、メトロポリタン・オペラの今シーズンの幕開きを飾った新演出の「フィガロ」は、そういう意味で大成功だったと思う。歌手の素晴らしさということ以上に、演出上の新鮮さがまず心に残る。舞台は1930年代に設定され、さらにはこのオペラの持つ性的な側面が強調されたからである。そのことは演出を担当したリチャード・エア氏へのインタビュー(冒頭で紹介された)で本人の口から説明されている。

貴族的伝統と市民的自由の対立を描きつつも、男性対女性というもう一つの側面を強調することによって、現代人にとって身近な物語となった「フィガロ」の舞台は、回転装置を生かして隣の部屋や屋根裏までをも使った立体的なものとなっていた。つまり視覚的な工夫が多分になされ、動きが多い舞台に釘付けとなる。序曲の始まりから舞台は回り、各幕の場面が一通り登場すると、これがひとつの宮廷内で繰り広げられる、たった一日のドラマであることをわからせる。その巧妙さには驚きを禁じ得ない。

指揮はジェームズ・レヴァインで、何とMETにおける75回目の指揮だというから見事である。オーケストラの響きは会場いっぱいに広がり、メリハリがあってスピードも良く、この公演の成功の大きな要因の一つであったことは言うまでもない。実際私は、「フィガロ」の音楽をこれほどにまで深く味わったことはなかった。何種類もの全曲盤CDやDVDに触れ、実演でも接したことがあるにもかかわらず、である。それぞれの歌がどのように関連し、さらにその歌詞に即して音楽がどう変化するか、その細部にまで私は初めて手に取るように確かめることができた。

おそらくはライブ映像によって、細かい部分(例えば第3幕の結婚式では、テーブル上に並べられた皿やグラスにまで、大変凝ったものである) にまで目をいきわたらせることが出来た上に、字幕が付けられることによって、音楽にも自然と集中できたのであろう。

以上のように、視覚的な勝利とでも言っていい今回の上演には、レヴァインの音楽以外にも、さらに歌唱の面でいくつかの優れた部分があり、総じて言えば最高ランクに位置するものだったと言えるだろうと思う。その筆頭はスザンナを歌ったソプラノのマルリース・ペーターセンである。彼女は驚くような声ではないが、終始安定して美しく、さらには品がある。一方、第4幕でスザンナと入れ替わる伯爵夫人は、アマンダ・マジェスキーという人で、何でもMETデビューとのことである。第2幕の冒頭では緊張からか、少し硬さも感じられたが、後になるほど声の艶は増した。なお、この二人は年齢的な隔たりが小さいこともあって、第4幕のシーンは見ごたえがあった。

表題役フィガロは今回、バス・バリトンのイルダール・アブドラザコフであった。安定した歌声と演技だったが、ペーターセンと組んだコンビはやや熟年よりのカップルで、なんとなく新婚ほやほやの雰囲気に乏しい。一方、アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったバリトンのペーター・マッテイは、いつか見た「セヴィリャの理髪師」で表情豊かなフィガロ役を好演した北欧の歌手だが、声に張りがあって見事だった。マッテイはフィガロを、アブドラザコフは伯爵を、それぞれ演じても良かったのではないか、などと考えた。

脇役にも十分配慮のある今回の公演では、特にケルビーノ役のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が白眉である。女性としても美しく長身の彼女は、ボーイッシュな仕草と歌いっぷりで会場を大いに沸かせた。

「フィガロ」を見るたびに思うのは、前半があまりに楽しすぎて、後半がよくわからなくなることである。だが今回の公演ほど、全体を通してたっぷりと音楽も演技も味わうことのできた公演はなかった。ひとつひとつのアリアの表情も、アンサンブルにおける滑稽なやりとりにも、何一つ飽きることがないばかりか、極度の集中力の持続が求められた結果、4時間足らずの上演が終わった時にはどっと疲れが吹き出し、家に帰るなり私は寝込んでしまった。美味しいものを食べた後では、もうしばらく何も食べたくなくなるような、そんな気分だった。

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