大都会の真ん中でも澄み切った冬の夜空にはオリオン座くらいは見つけることができる。そしてオリオンが剣を持つ左腕の赤い恒星ベテルギウスを一つの頂点として、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンから成る冬の大三角形はあれではないのか、などと見上げながら寒い夜道を散歩していると、「天上の音楽」という言葉が思い浮かんだ。そういえばこの表現は、とても美しい音楽、特にベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章の解説で読んだような記憶がある。その時の演奏は、もしかしたらベネデッティ=ミケランジェリの演奏するウィーンでのライヴだったかもしれない。
都合のいいことに我がポータブル音楽プレイヤーにその音源が収録されている。指揮はジュリーニ。1979年のライヴ収録で、これは放送用の録音だろう。それがドイツ・グラモフォンからリリースされている。演奏前の拍手までもがCDに収録されていることは珍しく、そのことがこの演奏がライヴであることを強調している。しかもCDにわずか一曲。いくら遅い演奏とは言え、これはちょっとコスト・パフォーマンスが悪い。けれどもこの演奏は、ただでさえ録音の少ないミケランジェリの、それも未完に終わったベートーヴェンの協奏曲録音とあって名盤の評価が定着している。
FM放送をエアチェック(もうこの言葉は死語となって久しいが)してSONYのクラシック専用とか銘うたれたカセットテープに録音したのは中学生のころだった。隅々にまでくっきりと照らすイタリアの太陽のように、ミケランジェリの美しいタッチが光彩を放つ。それを音符を十全に押さえるジュリーニの確実な指揮がサポートすることにより、ユニークながら見事なコラボレーションを展開している。この演奏の例えようもなく美しいハーモニーに心を奪われ、何度耳にしたかわからない。
だがCDの時代になって買い直しラックにしまってはいたものの、あえてそれを取り出して聞くことはほとんどなかった。「皇帝」の録音は次々と新鮮で素晴らしいものがリリースされるので、それを追いかけるだけで十数枚のコレクションになってしまった。だが私のこの曲の記憶は、ルドルフ・ゼルキンがピアノを弾き、若きスター、レナード・バーンスタインが伴奏を務める古い演奏を別格とすれば、このミケランジェリ盤が個人的なベストの一角を形成しているのは間違いがない。
多くの作品がそうであるようにこの曲もまた、ベートーヴェンらしさとともに一度聴いたら耳から離れない旋律の宝庫である。いやそのなかでもこの曲は、第5交響曲や「レオノーレ」第3番などとともに、ベートーヴェンのもっとも生き生きとした躍動感、自然で健康的な美しさを持っており、その感じは最盛期のギリシャ建築のように素晴らしい。冒頭の長いカデンツァ(音程の高低を3度も繰り返す)に続く滋味あふれる第1主題を筆頭に、数えたらきりがないのだ。
第2楽章のアダージョが「天上の音楽」であることは上で触れたが、その最後部では静かな音楽が次第に第3楽章のメロディーを示唆しはじめ、一気にフォルッティッシモとなってアレグロになだれ込んでいく。 ロンド形式のような変奏の数々は、同じメロディーが様々に姿を変え、オーケストラと掛け合いながら進んでいく。愉悦の極みである。バーンスタインの早い演奏で聞くスポーティーな呼吸感も忘れ難いが、ジュリーニの演奏は弦楽器のアンサンブルをうまく引き出し、独特の味わいがある。ジュリーニのベートーヴェンは、特に晩年少しくどいと思うときがあったが、ベートーヴェンの中ではこの演奏と、パールマンを独奏に迎えたヴァイオリン協奏曲が、私の昔の思い出として長く記憶に残っている。
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