2015年12月13日日曜日

NHK交響楽団第1824回定期公演(2015年12月11日、NHKホール)

マーラーの交響曲は私の40年にも及ぶ音楽鑑賞の中で、常に傍らにあったというわけではないのだが、演奏会に毎年何回かずつ細々と通い続けているうちに、とうとう残すところあと一曲という状況になっていた。マーラーの交響曲は長く、規模も大きいので、そのすべてを実演で聞くことはなかなか難しい。だがとうとうその日がやってきたのだ。

半年以上、どういうわけか音楽から遠ざかっていた私は、知らない間にN響とヤルヴィの「復活」を聞き逃してしまったので、もうなかなかN響でマーラーを聞くこともないな、などと勝手に思い込んでいた。コンサートに行かないとあの分厚いチラシ一式を受け取ることもできないから、ますますコンサートからは疎遠になる。実際には東京でマーラーの演奏会は結構多いのだが。

そういう状況でNHK交響楽団が12月の定期公演でマーラーの交響曲第3番ニ短調を取り上げるとわかったとき、私は何のためらいもなくチケットを買った。2日あるうちのあとの方(土曜日)の公演はすでに売り切れで、仕方なく前日の金曜日のコンサートを選んだ。指揮はシャルル・デュトワだから、この牧歌的な曲にうってつけではないか。ヤルヴィのユダヤ情緒たっぷりの演奏とはまた異なり、洗練された現代的な演奏を聞かせてくれるのではないか、などと想像は膨らんだ。

師走の、それも週末の原宿は足の踏み場もない混雑ぶりで、駅のキオスクにまで行列に並ばないと入店できない有様である。ドトール・コーヒーもチョコクロも長蛇の列。おまけに代々木体育館に向かう道は押し合いへし合いの大混雑。安室奈美恵のコンサートに向かう若者の列が陸橋の袂まで延々と続いている。いったいこの中にマーラーのシンフォニーを聞く人がどれほどいるのだろうか、と首を傾げるのだが、それがいるのである。

NHKホールに着くと、当日券もあったようだが、私は今回B席を購入してあるので迷わず2階席へ。ずらりと並んだ大編成オーケストラの後に、東京音楽大学の女声合唱団、NHK東京児童合唱団が並ぶ。彼らは第1幕の冒頭から微動だにせず整列して座っているが、出番は短い。そしてこの曲は長いオーケストラ曲で始まり、長いオーケストラ曲で終わる。もう一人、第4楽章でソロを務めるのはアルト歌手のビルギット・レンメルトである。彼女が指揮者の横に座ったのは第2楽章からであった。

大規模な出演者に加えて100分にも及ぶ超大作に休憩はない。そして音楽はどちらかといえば静かで精緻である。なのでこの曲が実演で演奏されるのは、第8番ほどではないにしても少ない。デュトワは長年N響の音楽監督であったが、彼のマーラーを聞くのは初めてである。だか今日の演奏は素晴らしかった。N響がここ数年、ヨーロッパやアメリカのメジャーなオーケストラの水準にあることは疑いがないが、今日の演奏でもその技量が如何なく発揮された。たしかに一部の金管楽器で、音を外す部分がなかったわけではない。けれども全編ソロ演奏が絶え間なく続くような演奏家泣かせの曲にあって、よくここまで弾けるなあというのが率直な感想である。デュトワは静かで繊細な部分ほど丁寧に弾かせるので、もしかしたらそのプレッシャーはかなりのものではないかとも思う。

マーラーの長大な音楽は、それ自体が演奏家と聴衆が一体となった長い道程の如くである。どのような演奏に変化してゆくか、その一期一会の瞬間の連続。消えてはなくなってゆく空気の振動を今回も感じた。第1楽章ではやや緊張気味のオーケストラも、第2楽章、第3楽章と進むにつれて、しっとりと繊細でしかも上質のブレンドされたハーモニー、色彩的で現代的な音色が会場にこだますることになったのである。

第2楽章が春の野をいくような音楽にうっとりさせられたかと思うと、第3楽章のホルンの舞台裏から響く音に、オーケストラの音が混じり、それは天国にいるような感覚であった。このホルン奏者はなんとうまいのだろうと思った。彼は第5楽章の途中で舞台に戻り、最後のカーテンコールで絶大な拍手を受けたのは言うまでもない。第4楽章のアルトの歌声、それに少年合唱と女声合唱が加わる第5楽章と、静かな音楽も聞きどころが絶えない。私はこの第2楽章から第5楽章までのあいだ、 これほどにまで共感に満ち、実演で聞くことによってのみ達成されるような緊張と集中力のもたらす奇跡のような音楽に、心を打たれた。この日の公演はテレビ収録されていたが、放送ではなかなかこのような部分まで収録されることはないだろうと思う。いつものことであるが。

この4つの緩徐楽章は、まるでフランス音楽のようだった。私は目を閉じ耳を澄まして聞くうち、デュトワの生まれた町、スイスのローザンヌで過ごした夏を思 い出した。レマン湖畔から見るフランス・アルプスの絵画のような美しさ。それはマーラーが「すべて音符にした」オーストリアの湖畔の光景に通じるものがあるのだろか。

第6楽章に入ると再び弦楽器主体の演奏になる。 第9番の最終楽章を思い出すような長大なアダージョは、次第に熱を帯びて、引いては返す波のように音楽を導いていくが、その過程においてもデュトワの音は知性が感情を支配している。そのことによってバランスの取れた高揚感が聴衆を覆った。職人的な指揮は、決して破たんをすることはない。かといって冷静すぎる指揮でもない。私はこの曲がこの指揮者ととても相性がいいと思った。そして初めて実演で聞くこの曲が、デュトワによるものであることをうれしく思った。

音楽が終わってもすぐに拍手は鳴り出さなかった。だがソリストや弦セクションの首席奏者たちと握手をして聴衆に振り向いたとき、絶大な拍手が沸き起こった。出演者が何度も舞台に呼び戻されるにつれ、どういうわけか感興はより大きなものへと変わっていった。暖かい空気が会場を包み、私も涙が込み上げてきたのだ。演奏後に感動のクライマックスのやってくる演奏会は初めてである。そしてその気持ちは、まるで春のような陽気に包まれた渋谷の街を歩く間中続いた。

コンサートが終わって綺麗にライトアップされた公園通りを下りながら、何年かぶりの渋谷の空気を味わった。深淵な音楽も次第に夜の若者の喧騒にかき消されていった。私は7回目となる自分の新しい誕生日を、ひとり深く祝った。「感謝」といったものでは言い尽くせない何か・・・それはマーラーが自然から感じていたもの・・・その多くがこの曲に込められているように感じた。

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