ワーグナーはつくずく自由を求めた人だったんだと思う。18世紀中ごろの、すでに産業革命や市民革命を経た後で自由を手にした民衆は、古い教会の価値観が支配する中世的な社会と決別し、新しい神を求め始めた。ベートーヴェンが髪を振り乱しながら自由への賛歌を歌うとき、ワーグナーはその考えを先に進めることを決意した。それからまだあまり時間はたっていない。でもそのころすでにワーグナーは、ドレスデンにおいて革命の旗手であり、亡命後もパリで「タンホイザー」の改訂版を上演すべく準備に勤しんだ。
「タンホイザー」はその後に作られる輝かしい多くの楽劇に比べると、やや構想が甘く、音楽的な成熟も見られない。それどころかそのストーリーが、何とも身勝手なワーグナーの人生そのものを反映しているかのようで、見ていてもどうも乗ってこない、などと思う人が
いても不思議ではない。不思議ではないのだが、でもこの作品はワーグナーの音楽の持つ恐るべき説得性をもって聞くものをそれなりに楽しませる。誇大妄想のような物語の大袈裟さは、ここですでに健在であり、そして驚くべきことにそのことが苦にならないばかりか、やはりあのワーグナー病のウィルスがすでに多く潜んでいる。
序曲をレヴァインが指揮すると、壮大な音楽がMETのホールに響き渡った。十分に音符の長さを取り、フレーズはたっぷりと響かせる。徐々にクライマックスを迎えるオーケストラは、雪崩を打つように第1幕の冒頭、バッカナールへと入っていった。演出はもはや古典的とも言えるようなオットー・シェンクのものが、21世紀を15年も過ぎようとしているのに健在である。官能的なバレエのシーンに見とれながら、これでもかこれでもかと続く。この改定パリ版の演出は、賑やかすぎて好きになれないが、実演や映像を伴うものでは悪くないと思う。ただこれが4時間にも及ぶ長い話の始まりなので見ている方もスタミナがいる。まだ誰も主役は登場していないのだ。
ヴェーヌスベルクに迷い込んだタンホイザーは、欲望に支配された時間を過ごす。丸で竜宮城でのような時間の中は、タンホイザーをして疑念を感じさせることとなる。このようなことをしていていいのだろうか、と彼が迷い、苦悩を募らせるに至ってついに、ヴェーヌスの腕を振り切って現世のドイツに戻る決心をするのだ。葛藤の中で次第に意思を確立してゆく、あの毒の入ったワーグナーの音楽はここでも真骨頂である。
タンホイザーを歌うのは南アフリカ出身のヘルデン・テノール、ヨハン・ボータである。ボータの声は、本当に人間の口から発せられているのだろうかと思うほどに力強く、それでいて透き通っている。オーケストラがフォルテで鳴ってもトーンが濁らないばかりか、その中をすり抜けていくような見事さで、ホールいっぱいを満たす。ヴェーヌスを歌うメゾ・ソプラノのミシェル・デ・ヤングも負けていない。彼女は女神であることを忘れ、まるで人間の女性が恋人を失うことを拒むように、タンホイザーを引き留める。ここのやりとりがこうも新鮮に感じられたのは初めてだった。
峠の道に舞い戻ったタンホイザーは巡礼の騎士団と再会し、そこで騎士の鏡のような存在であるヴォルフラムと再会する。ヴォルフラムを歌うのはスウェーデンのバリトン、ペーター・マッテイで、「パルジファル」での名唱が見事だったという評価のようだが、私にとっては「セヴィリャの理髪師」で見たフィガロ役が忘れられない。どうも彼は三枚目の役の方が似合っているように思うのは私だけだろうか。
第2幕の序奏から歌合戦までの間は、オーケストラ好きの者にとっては至福の時間である。颯爽として湧き上がるようなリズムから有名な大行進曲へと続いていく部分は、指揮者の腕の見せどころではないか。レヴァインは車いすでの指揮になってしまったし、かつてのちょっと粗削りな若々しさは少し失われたけれども、音楽を知り尽くした余裕の指揮からは淀みない音楽が迸り出る。宮殿の場面で舞台に囲いが設けられるようになるからか歌声がよく響き、ここで出演者が次々とハープに合わせた歌唱を披露する。 ハーピストはオーケストラの中にいて、インタビューにも登場したフランス人だったが、舞台が見えないにも関わらず歌とのハーモニーは十分である。いっそハープも、トランペット奏者たちと同様に舞台に登場させ、歌手は歌に集中した方がいいのでは、などと余計なことを考える。
エリーザベトを歌ったのはソプラノのエヴァ=マリア・ヴェストブルックという人で、彼女もなかなかの存在感である。エリーザベトは最愛のタンホイザーに裏切られたという過去の出来事にも寛容であったが、タンホイザーはなんとここでヴェーヌスベルクのことを口走ってしまう。吐露したというよりは確信犯である。タンホイザーはしかし、彼自身の気持ちに忠実であったというべきか。そのアナーキーなまでの自由奔放さが、中世ドイツの騎士団社会で許されるはずがなかった。エリーザベトが戸惑うのも無理はない。そしてタンホイザーは罰として巡礼の旅に出かけることになる。ローマへ赴き、贖罪と懺悔の日々を過ごすのである。
赦しを得たタンホイザーが無事帰国するのを待ちわびるエリーザベトだったが、タンホイザーの姿は見えない。ここで私たちはヴォルフラムが歌う有名なアリア「夕星の歌」を聞くことになる。静まり返った会場で音楽が静かに流れてゆき、やがて有名な旋律が始める、というあのワーグナーの風体である。ため息の出るようなまでに静謐な時間は、どこまでも続いていくような感覚で私たちをヨーロッパの古い時代へとタイムスリップさせる。
結局、タンホイザーの赦しは得られず自暴自棄になってヴェーヌスベルクへ舞い戻る決心までする彼を、なんとエリーザベトはかばうのだった!エリーザベトの無心の救済によってタンホイザーの心は赦される。都合のいい幕切れだとは思うが、まだこの時代、社会を覆っていた因習的な価値観、すなわちキリスト教会の偽善的な重みを彼は跳ねのけようとしたのではないか。 21世紀なって自由な時代を生きている私たちは、このようにして獲得されていった自由の勝利を忘れるべきではない。個人の意思が尊重され、その心の動きこそが価値があると当たり前に信じている現在のリベラルな世界に育った世代には、ワーグナーが一貫して示そうとした完全なる自由を理解しすぎてしまっているのではないだろうか。だが昨今、その自由が脅かされる事態が続いている。そういう風にして私たちの世界は変化している。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)
ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...
-
現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得て...
-
当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や...
-
1994年の最初の曲「カルーセル行進曲」を聞くと、強弱のはっきりしたムーティや、陽気で楽しいメータとはまた異なる、精緻でバランス感覚に優れた音作りというのが存在するのだということがわかる。職人的な指揮は、各楽器の混じり合った微妙な色合い、テンポの微妙あ揺れを際立たせる。こうして、...
0 件のコメント:
コメントを投稿