出かけるコンサートを選ぶとき、もっとも重視する要素のひとつが演目である。私の場合、気が付いてみると50歳を過ぎていて、若い頃は何度も聞けると思っていた音楽が、意外にもあまり聞く機会がないことを大変残念に思っている。もともと限られたクラシック音楽の中でも、まだ実演に接していない曲は沢山ある。
そもそも音楽は、実際に演奏するものを聞くという目的のために作られている。まだ録音技術のなかったころは当然ながら、音楽を聞くには実際の演奏に接するしかなかった。ラジオやテレビが大量の音楽を放送するようになった20世紀においてでさえ、クラシックに限らず、通常音楽はライブを主体とする。まして、クラシックのように比較的長い曲を、一定の集中力を持って聞くことはなかなかできるものではない。仕方がなく、ごく一部の、金銭に多少なりともゆとりのある愛好家のみが、レコードやCDがこの体験を疑似化してきた。
ところが我が国では、実演で聞く演奏よりも、放送やディスクによって聞くことを重視する傾向が強い。特にクラシックでは、メディアによって得られる音楽体験の方が、実演よりも語られることが多いのは、残念なことだ。実際のところ私も、コンサートに行くよりもはるかに、レコードやCDによる過去の演奏によって曲に馴染んできた。
本当の音楽の良さは実演に接することでしか得られないものだと確信するには、一定の量のコンサートに出かけ、感動的な演奏だけでなく、つまらない演奏にも数多く接する必要がある。経済的な負担のみならず、時間的負担も大きいうえに、出かけるコンサートが運よく聞きたい曲目を並べていることも少なく、チケットが買えなかったり、安い席に甘んじてしまうことも数限りがない。このようにクラシック音楽のもつ敷居の高さは、(かなり下がったとはいえ)今もって高いと言わざるを得ない。
さて、ロマン派後期を代表する大作曲家の一人、ブラームスの合唱作品「ドイツ・レクイエム」は、売られているCDも数多く、何といっても「ドイツ三大B」の代表作品である。だが、どうだろう。この作品を聞いたことが、過去に何回あっただろうか。アマチュア合唱団にでも入っていたら、もしかしたら歌うことはあったかもしれない。カラヤンを始めとするCDやDVDの類も、聞こうと思えばできたはずだ。東京では年に何度かは、どこかで演奏されている曲だろうから、実演に接することはそれほど難しくはない。いやYouTubeやSpotifyを起動すれば、たちどころにいくつかの演奏が無料で楽しめるはずだ!
にもかかわらず、私がこれまで「ドイツ・レクイエム」を聞いたのは、コリン・デイヴィスの指揮するバイエルン放送響によるCDを買った時だけであった。どういうわけか、この曲は避けて来たのかも知れない。いや、そもそも「レクイエム」というジャンルは、キリスト教に関りの少ない我が国の音楽文化において、どちらかというと重く、そして縁遠い存在でさえある。あのモーツァルトやフォーレでさえも…。
そういうことだから、コンサートのちらしにブラームスの合唱作品ばかりを並べたプログラムを見つけたときに、これはもう一生で最後かも知れないが、一度は真剣に聞いておこうと意を決して出かけることにした。出演する音楽家は、まあ二の次であった。時間があって、チケットもさほど高くはなく、しかも当日でも手に入る。さらには、ドイツ音楽を得意とするフランス人指揮者、ベルトラン・ド・ビリーが指揮する新日本フィルということになれば、もう言うことはない、とさえ思った。鬱陶しい梅雨空の中をサントリー・ホールまで歩いて行くと、空はほのかに明るくなり、気分も良くなってきた。私はここのところ体調が悪く、毎週のように病院に通っているが、その鬱憤を晴らしたいという思いもあった。
売れ残った席のうちの最も安いB席を買い求め、LAというブロックにたどり着くと、そこは舞台後方の真横の席で、指揮者以外はみな横を向いている。そして二人のソリスト(ソプラノの高橋絵里とバリトンの与那城敬)は完全に向こうを向いている!まあそれでもサントリーホールはうまく反射板を組み合わせて補正してくれているようにも思うから、むしろ演奏家を間近で見られるこの席も、たまには悪くない、と思った。
会場は7割程度埋まっており、このような地味な曲目にしてはいい方だ。プログラムの前半は、ブラームスの「運命の歌」と「哀悼の歌」。いずれも10分余りの曲である。合唱は栗友会合唱団。 これらの2曲は、それぞれ古代ギリシャ、古代ローマにおける神話を元にした詩人(ヘルダリーンとシラー)の作品に拠っている。
ブラームスのこれらの曲(には34歳の作品である「ドイツ・レクイエム」も含まれる)は、いずれも交響曲第1番を作曲するよりも前に作曲されている。ブラームスの合唱曲は、いわば交響曲への過程の中に埋もれている。ブラームスの作品を交響曲からのみ体験すると、意外な落とし穴がここにあるように思う。とはいえ、これらの合唱曲は、何か同じような雰囲気の曲でもある。そして私は、眠くなることはなかったが、かといってこれらの曲を感動を持って楽しんだわけではなかった。音楽は私の耳に達し、そして通り抜けて行った。
どういうわけか、メイン・プログラムの「ドイツ・レクイエム」に至っても、さほど変わることはなかった。音楽の規模は大きくなり、ソリストも加わる。そしてオルガン!サントリー・ホールの、舞台真正面に設えられたパイプオルガンは、私の席から見ると左手にあり、手の動きまで良く見える。奏者の女性は指揮者をモニターで確認しながら、体を時に震わせながら、一生懸命何段にも及ぶ鍵盤とペダルを操る。一か所、オルガンが突如単独で鳴り響く箇所がある。そこを頂点として、この音楽はオルガンの底力のようなものが、目立たず、だがしっかりと低音を支えて行く。そして2台のハープもまた、時に印象的な雰囲気を醸し出す(特にコーダ)。
あと発見したこととしては、ソリストの登場シーンが意外に少ないことだ。だから一にも二にも合唱である。しかもア・カペラになるところはほとんどなく、ずっと合唱と器楽合奏が鳴り響く。「レクイエム」とはなっているが、一般的な「キリエ」だの「グローリア」だのといった典礼の決まりパターンではなく、ブラームス自身がテキストを並べて歌詞としている点がユニークである。
私は初めての経験となるブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏に、飽きることはなかったが、感動することもなかった。それはなぜだろうか?ひとつだけ考えられることは、演奏の良し悪しが関係していると思われることだ。指揮者は無難にまとめているし、合唱はとても頑張っているのだが、オーケストラの響きがちょっと貧相な感じがしたのは、聞いた場所が悪かったのか、私の感性に問題があるのかはわからない。もっとも目立った間違いはなかったし、長い拍手も続いた。だが、このオーケストラを聞いていつも感じる音楽の技量に関する問題に、私はどうしても行き当ってしまうのである。
とは言え、「ドイツ・レクイエム」のような大作の実演に触れる機会は、もしかするともう二度とないかも知れない。そんな思いで、私は熱心に耳を傾けたつもりである。この経験が、録音された演奏を聞くきっかけになった。そして、カラヤンの名演奏を初めて聞く気持ちになった。そしてそこで得られる名状しがたい素晴らしさは、この実演とはまた別の音楽ではないかとさえ思わせるほどだった。このことは改めて書いてみたい。実演に勝る音楽はないのだが、録音された歴史的な名演奏には、やはり実演では得られない良さがあるのもまた事実である。けだしクラシックというのは難しい。
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