2020年5月9日土曜日

ベルリオーズ:劇的交響曲「ロメオとジュリエット」作品17(Ms: クリスタ・ルートヴィヒ、T: ミシェル・セネシャル、Bs: ニコライ・ギャウロフ、ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フランス国立放送局合唱団員、ウィーン国立歌劇場合唱団)

ベートーヴェンが第九交響曲によって解き放った管弦楽の流れのひとつは、ベルリオーズを経てワーグナーに受け継がれたようだ。ワーグナーが逃亡先のパリで耳にした交響曲「ロメオとジュリエット」は、彼をして感銘の中に埋もれさせ、その音楽的な語法を「タンホイザー」や「トリスタンとイゾルデ」などに応用した。「トリスタン」はベルリオーズに献呈されている(だがベルリオーズの、この前奏曲を聞いての第一印象は芳しくなかったようだ)。

ワーグナーはベルリオーズから大きな影響を受けたことは、「幻想交響曲」に用いられるモチーフの使い方に関する継承からもうかがえる。ベルリオーズは「ロメオとジュリエット」をパガニーニに献呈している。パガニーニは「イタリアのハロルド」を聞いて大金を贈り、「ベートーヴェンの後を継ぐのはあなたしかいない」と手紙に書いている。

「ロメオとジュリエット」は 「合唱、独唱及び合唱レシタティーフのプロローグ付きの劇的交響曲」と銘打たれ、合唱や独唱が最初から挿入されているにもかかわらず、オラトリオでもカンタータでもない形式をとっている。あくまで交響曲であり、合唱や独唱はその中心ではない。第2部から第4部までの中間楽章はほぼ管弦楽のみで演奏される。言わずと知れたシェークスピアの戯曲に基づいている作品だが、その物語を忠実に再現したものではなく、ベルリオーズがこの物語から得たインスピレーションを自由に音楽表現した作品と言える。

1839年に作曲された「ロミオとジュリエット」は標題音楽のひとつの最高峰であり、ベルリオーズの作品の中では、現在でも比較的しばしば演奏されるが、その規模と長さ(1時間半!)からか、なかなかとらえどころがないと感じられ、私も最初は随分敬遠していた。CDだと当然2枚組の価格となるのも痛い。ベルリオーズでも「幻想交響曲」については、どの演奏がどう素晴らしいかを記したWebのサイトを見つけるのは難しいことではないが、「ロメオとジュリエット」となるとその比較試聴記なるものは皆無に等しい。これは残念なことだ。

私が初めてこの曲に投資したのは1990年代だった。演奏はコリン・デイヴィスがウィーン・フィルを指揮したフィリップス盤だった。コリン・デイヴィスはベルリオーズの第1人者だが、当時はミュンヘンで指揮棒を振っており、ウィーンへはバイエルン放送合唱団を連れて行った。ウィーン・フィルのベルリオーズというのも珍しく、ここではフランス風の響きがウィーン風の重すぎない中音と混じり、独特の音で鳴っているのがまず面白い。例えば、第1部「序奏」は速い弦楽器で始められ、続いてトロンボーンを主体とする管楽器のユニゾンへと移るが、この金管楽器の響きはウィーン風に柔らかい。

しかし、この演奏はライブ録音なのか、大音量をうまくとらえきれておらず音が割れており、特に後半は単調な感じがしている。それに比べるとやや時代は遡るが、同じウィーン・フィルを指揮した録音でも、ロリン・マゼール指揮による1972年のデッカ盤が指揮、演奏、それに録音といずれも素晴らしいと思った。ところがこの録音は名盤の誉れ高いものの、すでに廃盤となっているようで、ダウンロードすることもできないしストリーミングでも聞くことができない(2020年4月現在)。管弦楽部分のみを演奏したより古い(モノラル)のベルリン・フィルとの演奏が聞けるのは嬉しいけれど。そういうわけでいまやこのCDは、大変貴重なものとして私の手元にある。

モンターギュ家とキャピュレット家の壮絶な戦いを描く序奏に続き、第1部からいきなりコントラルトと合唱が登場する。語られるのは物語のあらすじである。後に登場する音楽のモチーフがここでで登場する。この予告的なモチーフは、交響曲としては異例なことで、あの第九の第4楽章での回帰するメロディーを重い起こさせる。間もなく印象的なハープの伴奏に乗って歌われる愛の歌がとても美しい。うっとりとしていると、その後にはテノールが合唱を伴ってレチタティーヴォとなるあたりも見事だと思う。

第2部からは、聞きどころの連続だ。第2部は前半「ロメオただ一人」で静かなメロディーが幻想的に奏でられ、あの「幻想交響曲」の第3楽章のような心地よい音楽が6分も続く。やがて後半に入るあたりからテンポは速くなり、「キャピュレット家の饗宴」となる。ここの躍動感は聞いていてすこぶる楽しい。

第3部は有名なバルコニーのシーンである。ここにわずかだが男声合唱が入る。宴会の余韻を味わいながら家路につくキャピュレット家の若者たちの歌である。続く「愛の場面」は単独でも演奏される美しい曲で、ワーグナーをして「今世紀における最も美しいフレーズ」と言わしめたほどだ。ベルリオーズはギターの名手だったので、ギターを用いて作曲したということをどこかで聞いたことがある。そのため独特の高音中心の響きが続き、しかも少ない数の楽器でのアンサンブルが多いため、あの無駄な部分をそぎ落としたようなスッキリした音楽になっている、というのだ。

第4部は「マブ王女のスケルツォ」として有名だが、劇の中ではちょっとした間奏曲といった感じである。途中に変わった音が聞こえてきたと思ったら、これはアンティーク・シンバルという楽器だそうだ。マゼールはこのスケルツォを、ややテンポを落として丁寧に指揮している。音楽は、そのあとに続く第5部「ジュリエットの葬送」に対するちょっとしたアクセントになっているからか尻切れトンボのように終わる。昨年ソヒエフ指揮N響で聞いたコンサートでは、全体のプログラムがここで終わってしまい、少なからず欲求不満が残った。

第5部「ジュリエットの葬送」は、思うにベルリオーズらしい音楽だ。まず重々しいメロディーが低弦で示され、それがバイオリンや木管に引き継がれていく中、合唱が"Jetez des flueres…"と繰り返していると、急に雲の合間から日が差すように明るくなっていくのがとてもすてきだ。特に中盤はごくわずかな伴奏を伴う合唱主体の部分が続く。合唱が消えると管弦楽のみが残って、葬儀の列が静かに消えていくように遠ざかる。

ここから引き継がれるのが管弦楽のみで演奏される第6部である。激しく急速なテンポと、静かで厳かな部分が交錯する。ここから8分間に亘って描写されるのは「祈り、ジュリエットの目覚め、忘我の喜び、絶望、いまはの苦しみと愛しあう二人の死」である。どことなく「断頭台への行進」を思いおこさせるような標題音楽のひとつの頂点である。

いよいよ終曲第7番である。モンターギュ家とキャピュレット家がそれぞれ別の合唱となって激しく罵りあう中、 ロランス神父(バス)が登場、最大の聞かせどころでもあるアリアを歌って両家を諭す。最後には両家が和解し、壮大なコーラスが大規模な管弦楽とともにコーダを迎えて終わる。

若きマゼール(42歳)による演奏に登場するソリスト陣は豪華だ。コントラルトのクリスタ・ルートヴィヒはウィーン育ち?の歌手だが、やや陰りのある歌声がここでは魅力的で、第1部のプロローグで悲劇を予感する。一方、ミシェル・セネシャルはフランス人で、独特の高音を活かしてロメオの心情を瑞々しく歌う。そしてフィナーレに登場するブルガリアの巨匠ニコライ・ギャウロフは、もはや何も言うことはないだろう。戦後最大のバス歌手は、丸でヴェルディのオペラを聞くようなドラマチックな歌を二つの合唱団と塗れながら披露する。その合唱団は2つ。ウィーン国立歌劇場合唱団とフランス国立放送局合唱団員が、それぞれ両家に分かれて熱唱を披露する。

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