2021年10月17日日曜日

NHK交響楽団第1939回定期公演(2022年10月16日東京芸術劇場、指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット)

10月に入っているというのに気温の高い日々が続いている。例年だとすっかり秋めいて行くこの時期、今年はまだ半袖のシャツが欠かせない。オリンピックで日程が後に倒れた今年のプロ野球ペナントレースも、いまだに両リーグの優勝チームが決まらない。我が愛する阪神タイガースは辛うじて優勝の可能性を残してはいるものの、いくら連勝してもそれを上回るヤクルト・スワローズの快進撃にあっては焼け石に水である。むしろ25年も優勝から遠ざかっているオリックス・バファローズを私は応援している。万年最下位のこの弱小チームは、多くの選手を怪我などで欠きながらも奇跡的に首位を独走しているが、ここへきて2位のロッテ・マリーンズに優勝マジックが点灯してしまった。これもまた今年の異常と言える。

異常と言えば、あれほど感染者があふれた新型コロナウィルスの猛威が9月に入り原因不明の収束を見せつつあることは喜ばしいことだ。そしてその機会をとらえ、自民党・岸田政権は衆議院を一気に解散し、史上最速で総選挙に突入しようとしている。株価が連日乱高下し、台湾海峡では緊張が高まっている。サプライチェーンの乱れに端を発した世界的なインフレや円安にもはや打つ手がないというのに、日本中がつかの間の安堵を感じている。

そんな毎日のある日、私はNHK交響楽団の定期公演に関するメールを受け取った。昨年は中止になった定期公演が今年から復活、9月にはパーヴォ・ヤルヴィが来日し、予定通りのプログラムをこなしたようである。そして10月には何と、94歳にもある世界最高齢の現役指揮者、ヘルベルト・ブロムシュテットが3つの公演に登場するというのである!さらに地方公演も含めると1か月近くを日本に滞在することになる。もっともそのようなことは、ファンの間では知れ渡っていて、チケットは早々に売り切れ。改装工事で使えないNHKホールよりも収容人数の少ないホールとあっては、もはや手にする術はないとあきらめていたのだが、緊急事態宣言の終結を受けて追加販売されたようで、何と初日土曜日のコンサートのA席が、横並びで余っていることを当日の朝に発見した。妻に聞くと行くとう。私はさっそくこれをを購入し、夕方6時開演のコンサートに東京芸術劇場まで出かけた。

2年ぶりの池袋は、物凄い人々でごった返している。いつ行っても好きになれない街だが、コンサートとあっては仕方がない。長いエスカレータに乗ると、いつもは目にする老人や杖をついたような人をあまり見かけない。渋谷には行き慣れた人々も、池袋までとなると諦めざるを得ないのだろうか。久しぶりの満員のコンサートは、やっと取り戻された「日常」の光景である。客席がマスクをして開演を待っていると、同じようにマスクをした二人の人間が舞台に登場した。オーケストラは管楽器を除いてまだ舞台には登場していないから、係の人が何かを告げに来たのではないかと思っていたが、会場は大きな拍手に包まれた。何とその2人こそ、ヴァイオリニストのレオニダス・カヴァコスと指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットだったのである。

驚いたことにブロムシュテットは杖もつかず、歩いて指揮台に向かった。そしてその後を追うようにオーケストラの残りのメンバーが舞台に現れた。何とも粋な演出は、9月のヤルヴィの時にもそうだったらしい。やがてチューニング。今日のコンサートはFMで生中継、テレビ録画もされる。プログラムの最初はブラームスのヴァイオリン協奏曲である。ギリシャ生まれの世界的ヴィルトゥオーゾ、カヴァコスは、1967年生まれというから私とほとんど年齢が変わらない。若いと思っていたら、もう50代なのである。ブックレットによれば、すでに過去3回もN響と共演しているようだ。

一言で言えば、ブラームスのヴァイオリン協奏曲をこんなに軽々しく演奏したのを見たのは初めてだ。CDで数多くの演奏に接している名曲だが、どの演奏もずっしりと重く、相当真剣になって弾く曲という印象が強い。録音ならなめらかで美しく聞かせるか、ライブなら必死の形相で難曲を弾き切るか。ところがカヴァコスは、どんなに速いところでも圧倒的なテクニックで難しいフレーズを乗り切って見せる。これは言ってみれば、パガニーニ風のブラームス。そして驚くのは、その速さに指揮がきっちりとついて行っている、というと失礼で、完全に独奏者の求める伴奏をこなしていることだろう。

これまで私たちは、老齢の指揮者がしばしば椅子に腰かけながら演奏する弛緩した音楽を、「枯淡の境地」などと形容しながら受け入れてきた。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーの生気を失った音楽は、辛うじて間に合ったステレオ録音によって忘却を免れ、故障続きのヘルベルト・フォン・カラヤンや晩年のレナード・バーンスタインの常軌を逸した演奏も、理解ある聴衆と商売気の塊であるレコード会社、それに献身的オーケストラによって、評論家をも巻き込んだ賛美の嵐が演出されてきた。それでも何十年かが経つと評価は歴史の波にさらされる。結局、80歳を過ぎても矍鑠として、一切の妥協を許さない指揮をしたのは、ギュンター・ヴァント、ピエール・ブーレーズ、それにニクラウス・アーノンクールくらいしか思いつかない。しかしかれらは80代で突然この世を去ってしまった。

94歳のブロムシュテットは、まだ20年は若かろうと思うような生気に満ちた音楽で私たちを瞠目させた。コロナ禍でなかったら、ブラボーの嵐が絶えなかったであろう。ブラームスでのオーケストラは、それでもやや練習不足か、少し硬いところが目立った。第2楽章の導入部分などがそうである。だがカデンツァの深く味わいに富んだ表現や、そこからそっと入って溶け合うフレーズの、なんとも洗練された品格は、まるでそれが当然のことのように示されるとあっというまに通り過ぎてしまう。だがそこは、高い技量があってこそであることは、この曲を知っている人なら納得するだろう。軽々しくヴァイオリンを操るカヴァコスは、終始ブラームスを楽しんでいるようだったし、ブロムシュテットの指揮も若々しく、それこそが奇蹟だった。そう、ブラームスは枯れてはいけないと思った。この音楽、どのフレーズも生々しい野心に満ちている。それを表現できない演奏は、本物のブラームスではないような気がしている。

しかし、本日の圧巻はブラームスよりもむしろ、後半のニールセンにあったことは確かだ。一音を聞いただけでオーケストラの響きが違った。この日のN響は、確かな練習量を想像させた。特にクラリネット独奏の見事さと言ったら!ブロムシュテットの十八番であるニールセンの音楽を、初めて聞く曲でありながらかくも新鮮な感覚で聞かせる演奏に出会えたのは、一生の思い出になるだろう。ブロムシュテットは愛する北欧が醸し出す独特の風景を、圧倒的な自信を持って聴衆に明示した。そのエネルギーは強力にオーケストラに乗り移り、乾いてやや冷たい色彩感と打楽器に象徴される独特の緊張感を、30分以上に亘って維持するというものだった。

記憶する限りニールセンの交響曲を、ブロムシュテットは過去に2回録音している。1回目はEMIへの録音(70年代)でデンマーク放送響によるもの、2回目デッカへのデジタル録音で、オーケストラはサンフランシスコ響である。このことからもわかるように、彼はこの作曲家の第1人者と言える。その確固たる解釈でニールセンを聞いていると、確かにこの作曲家にしかないようなものを感じる。それはシベリウスとも異なるものだ。

作曲された1920年代という時代は、第1次世界大戦が終結し、つかの間の平穏を取り戻しつつあった頃である。時折鳴り響く小太鼓が、いつのまにか世界を巻き込む戦争を想起させるが、そのこととこの度の世界的なパンデミックとを重ね合わせて考えることができる。もう元に戻らないのではないかとさえ思わされた災いが次第に遠ざかり、少しずつ日常を取り戻していくことができるのだろうか。そんなことを考えながら聞いたコンサートだった。何度も舞台に呼び出されては満員の聴衆から総立ちの拍手を受けるマエストロ。その光景を2年ぶりのN響定期で味わうことができた。今回こそもうこれが最後かと思った前回のブロムシュテットの演奏会から、もう2年以上の歳月が流れた。コロナ禍が世界を覆っても、忘れてはならない日常が存在する。日常と異常の交錯。そのことを音楽で示したのは、ニールセンを指揮するマエストロの飽くなき情熱だったような気がする。

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