METの歴史における「ボリス・ゴドゥノフ」の存在も、ちょっとしたもののようだ。手元にある同作品の簡単なディスコグラフィによれば、ボリス役としての往年の名歌手だったシャリアピンやピンツァなどが未だに高い評価を得ている。METとしても1年半にも及ぶ閉鎖を余儀なくされた後の幕開きに、この作品を登場させることにためらいはなかったのだろう。そして今回、ボリスを歌ったのはドイツのバスの第1人者、ルネ・パーペだった。彼は満を持してこの作品に挑んだ。指揮者は我が国でも有名な、セバスティアン・ヴァイグレである。新演出を手掛けるのは、スティーヴン・ワズワース。原作はプーシキン。
ごく短い序奏付きの冒頭で、この作品の主人公とでも言うべきロシアの民が、力強い民衆の歌を歌う。この作品を味わう一つの視点は、この合唱ではないかと思う。皇子が病弱なために摂政となったボリスは、王位に就く気はないなどと謳うが、これは嘘である。やがてクレムリンで戴冠式が開かれ、彼は皇帝に即位する。ディミトリ―皇子が死んだからだ(以上、第1部。改訂版ではプロローグに相当)。
舞台が変わり、中央に巨大なノートが置かれていた。ロシアの年代記を執筆しているのは、老僧ピーメン(バスのアイン・アンガー)である。彼は若い僧であるグレゴリー(テノールのデイヴィッド・ハット・フィリップ)との対話の中で、皇子ディミトリ―はボリスによって暗殺されたのだと語るのだ。
もし生きていれば同い年だと悟ったグレゴリーは、僧侶になることをやめて脱走する。行き先はリトアニア。死んだディミトリ―に成りすまして、実は生きているとの噂を民衆に広め、ボリスの失脚を狙おうとするのだが、実はこのくだりは後からそうだと知っているから書けるわけで、物語だけを追っていると少しわかりにくい。それどころか、この辺りまでの小一時間、暗い舞台に実に男声しか登場しない。やはり音楽の力を借りないと、とても緊張感が続かないわけである。
舞台が少し明るくなり、リトアニア国境に近い旅籠屋。官吏が脱走者(つまりは破戒僧であるグレゴリー)を見張っている。ここで脇役の女将や他の浮浪人の会話が展開されるが、この歌い手たちの実力がなかなかで、今回のMETライブの成功は、彼ら主人公以外の役者の歌と演技によるとこころも実に大きいように感じた。正体が知られたグレゴリーは、宿屋を抜け出して逃走する(以上、第2部、改訂版の第1幕)。
本来ならこの辺で休憩が欲しくなるのだが、今回の公演では原典通りだそうで休憩はなく、そのまま第3部(改訂版の第2幕)へと進む。感染の機会をなるべく減らそうとする劇場側の配慮の結果だろうか。映画館で見るものとしては、辛抱してついて行くしかない。
クレムリン内でのボリスとその息子、娘との対話が始まる。やっとこの辺りから、少し舞台が明るくなってくる。やがて王位に就くことになる息子には帝王学や地理を教える。娘は父親ボリスによって暗殺されたディミトリ―の許嫁だったこともここで判明する。しかし、安定した生活は続かない。殺されたはずのディミトリ―が生きていて、潜伏先のリトアニアで謀反を企てようと画策しているとの知らせが、側近のシェイスキー公によってもたらされるのだ。
ボリスの最側近であるヴァシリー・シェイスキー公は、テノールのマクシム・パステルによって歌われた。彼は巨大な体を揺らせながら、ルネ・パーペの演じるボリスと丁々発止の会話。ここからがこのオペラ最大の見せ場である「時計の場」(バス版「狂乱の場」)に移る。8時を打つ時計の音は、オーケストラが発する鐘の音で、モスクワにいるような雰囲気が醸し出されて舞台は最高潮に達する。
だが、本公演では拍手もなく次の場に入る。次のシーンは第4部で、改訂版の第4幕(終幕)となっている。すなわち第3幕に相当する部分がカットされていることになる(というより原典版では存在せず、後から書き加えられた部分。ここの扱いが版によって大きく異なる)。私はこの作品を初めて見たから、それに気づくこともできず、聖ワシリー聖堂前でボリスの前に愚者が現れるシーンを目撃する羽目になる。
ここで少し説明が必要になるだろう。白痴を装う愚者はロシアでもっとも聖なる存在とみなされていたそうである。彼はボリスに自分のために祈るよう懇願するが、「ヘロデ王(子を殺した暴君)に祈ることはできない」と突っぱねるのだ。ここまで聞き進んでいたこのオペラの最高の見せ場は、何とここから幕切れまでである。実に人間的なドラマが展開されるのだ。
オペラとしての興業を考えた時、このようなドラマの展開が、他の部分との若干の違和感を感じないわけではない。だが想像にまかせて、ここからのボリスの死に至る場面を堪能しよう。クレムリンで諸侯を集めた政策会議が始まる。側近のシェイスキーを極刑にするボリスの乱心。そして気が狂った彼は、息子に「立派な皇帝になるように」と王位を譲り、そのまま息絶えるのだった。ピーメンの歌があまりに朗々していて、起伏を伴うボリスと対照的だが、ここが同時に進行する様は、ムソルグスキーの歌の真骨頂とも言うべき部分だと思った。
今回の舞台はここで終了した。改訂版ではこのあと、偽ディミトリ―がポーランドから侵攻するシーンがあるようだが、今回の上演では存在しなかった(と思う)。ムソルグスキーの音楽に触れた2時間は、このようにして終わった。不思議な感覚だった。イタリア・オペラの楽しさとはまた違った醍醐味が、ここには存在している。それを知るきっかけとしたい、と思った。なぜならこれまで、どちらかというと避けてきた作品だったからだ。だが、意外と親しみやすいのかも知れない。
「ボリス・ゴドゥノフ」がどんな音楽だったかは、膨大な数にのぼる録音で知ることができる。そしてそれらの録音のみを聞くだけの感覚と、映像や字幕を伴って見るときの感覚とでは、大きな違いがあることに気付く。多くの作品で、映像付きの作品として見ることの自然さと楽しさを書いてきたし、そのことに偽りや迷いはない。けれども、録音された音源だけの演奏を、言語もわからないまま聞き続けることもまた、別の味わいがある。モーツァルトやワーグナーなどその典型だが、ここにロシア・オペラの大作を加えてもいいのではないかと思った。カラヤンの念入りに録音されたウィーン・フィルとの演奏など、まさにその典型のような気がする。
マスクをした会場からは、盛大なブラボーが飛び交った(我が国と違う)。そしてルネ・パーペはエネルギーを使い果たし息を切らさんばかりの格好で何度も舞台に呼ばれた。ヴァイグレの指揮も手堅く、この作品にマッチしていたと言える。読響のシェフとなったヴァイグレの演奏を、さっそく聞いてみたいと思った。METライブの今シーズンの演目は、ニューヨークならではの新機軸となる新作品や、イタリア物の新演出が目立つ。私はフランス語版「ドン・カルロス」と「ルチア」の新演出に早くも期待をしている。
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