2022年9月9日金曜日

東京都交響楽団第958回定期演奏会(2022年9月9日サントリーホール、大野和士指揮)

重陽の節句9月9日は私の誕生日でもある。残暑がまだ続く9月の初旬は、台風が来たりすることも多く、蒸し暑くて天候が悪い。夏バテ気味の体調は、寝不足と食欲不振で疲労がたまり、とても良いコンディションとは言えない。少なくとも落ち着いて、クラシック音楽など聞く気持ちには、なれないことが多い。

特に暑かった今年の夏。もういい加減涼しくなってほしい、などと願う気持ちさえ奪われた日々は、私にとって2年も続く腰痛との闘いに終止符を打つべく、思い切って外科手術に挑むことになったことから始まった。7月初旬のことである。いつもより早々と梅雨明けとなった猛暑の日々を、術後のベッドの上で過ごした。コルセットが汗まみれになり、かねてからの口内炎で食べたいものも食べられない。そしてそんな養生の日々を新型コロナが襲ったのは8月上旬だった。最初は妻がり患し、基礎疾患のある私は、ホテルなどでの自己隔離を主治医に薦められた。しかし結果は私も陽性。ホテル滞在は息子に代わり、夫婦二人で闘病の日々が続いた。私は持病の治療スケジュールとの兼ね合いから、どうしても重症化するわけにはいかなかった。幸い、すぐに飲んだ抗ウィルス薬の効き目もあって、症状は軽症で済んだ。

猛暑と腰痛とコロナと基礎疾患。4重苦に苛まれつつ8月をやり過ごし、ようやく外出もできるころになって自分の56回目の誕生日がすぐそこに迫っていることを悟った。長く演奏会から遠ざかっているので、何か節目となる演奏会があれば、思い切って出かけてみたいと思っていたところ、都響から電子メールが届く。大野和士指揮の定期演奏会が、サントリーホールで開かれるのである。演目はドヴォルジャークの交響曲第5番とヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」。オール・チェコ・プログラムである。どちらも実演で聞くのは初めてだ。

2階S席を買い求め、仕事を早々に切り上げてサントリーホールへ向かう。暑さも少しやわらいで、心なしか涼しい風が吹いては来るものの、まだ秋のそれではない。夏が終わったのに秋が来ないという一年でも最も中途半端な日々。私が生まれたのは、こんな季節の変わり目だったのか、と毎年思う。9月最初のシーズン幕開きは、いつも暑くて上着を着るのが億劫である。

それでも2年以上のコロナ禍の中で、聴衆も落ち着いたものだ。客席はおおむね満員。まだカウンターバーの営業はなく、マスク着用も避けられないが、音楽を聴きたい気持ちは共通している。もう毎日のように演奏会が開けれ、会場入口で渡された袋入りのチラシには、海外から来る演奏団体の数も多く、コロナ前の水準に達している。

中欧のくすんだ音色が会場を満たし、木管楽器の浮き上がるようなメロディーが重厚で明るい弦楽器と溶け合う。これはまさにドヴォルジャークの音だと思う。常に見通しのよい大野の指揮が、楽天的で民俗的なリズムによく合っている。さわやかな第1楽章、抒情的な第2楽章。いすれもたっぷりとした曲だが、第3楽章も比較的長く、特徴が地味である。このため第2楽章や終楽章との切れ目がわかりにくい。大野はこの第2楽章と第3楽章を一気に演奏したように思う。一方、第4楽章がそれなりに輝かしい。

ブラームスに見いだされたドヴォルジャークは、ちょうどこのころから出世街道に乗って作風の完成度を高めていく。やがてはアメリカに渡り、「新世界交響曲」に結実する人生は、悲劇の多い作曲家の中で、稀にみるサクセス・ストーリーである。その出発点となったのが交響曲第5番であった。輝かしく伸びやかであるが、全体をスラヴ舞曲のように覆う作品かといえば、意外にそうではない。やはり交響曲として意識した作品である。

20分の休憩をはさんで、ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」が演奏された。ヤナーチェクもチェコの作曲家だが、ドヴォルジャークよりも13年だけ若い。けれども作風は、同じように民俗音楽をベースにしながらも、歌謡性に満ちた親しみやすさのドヴォルジャークとはずいぶん異なる。一言でいえば、ドヴォルジャークの故郷ボヘミアが都会的であるのに対し、ヤナーチェクのモラヴィア地方はより土着的、東欧的である。ただ私はチェコを旅したことはなく、このあたりの感覚はよくわからない。

ヤナーチェクの音楽には打楽器が活躍する。「グラゴル・ミサ」も同様で、オーケストラ最上段に並べられたティンパニは3台。それに小太鼓やシンバル、2台のハープ、そしてオルガンも加わる大規模なものだ。ソリストは4人(ソプラノ、アルト、テノール、バス)、それに混成4部合唱。今回の独唱陣は、順に小林厚子(S)、山下裕賀(A)、福井敬(T)、妻屋秀和(Bs)、さらにオルガンが大野麻里、新国立劇場合唱団は通常P席の位置に、ディスタンスを取って並ぶ精鋭部隊。

このたび演奏された「グラゴル・ミサ」は1927年第1稿ということだが、これは何と1993年になって出版されたもので、それまでの楽譜では最後に置かれていた「イントラーダ」が冒頭にも置かれている。もっとも私はこの曲を聞くのがほとんど初めてだったから、その違いには気づかない。そして冒頭からリズミカルにティンパニが鳴り響くと、そのパースペクティブの良さから、決して全体の調和が乱れない音楽的な表現に心を奪われた。これは大野の得意とするようなところだろうか。

第2部の、これもオーケストラだけの「序奏」のあとに、いよいよ「キリエ」が始まり、ソプラノと合唱が入る。おそらく難しい古代スラヴ語の歌詞が、どれほど歌手の負担となっているかは知る由もない。ただ今回のようなわが国の第1人者によって歌われると、そういう難しさが伝わることはなく、そのことが今回の演奏水準の高さを物語る。それはソプラノだけではない。やがて「クレド」で歌われるテノールもしかりで、合唱とオーケストラに負けていない。

「クレド」の中間部におけるオーケストラの響きは、金管楽器や小太鼓などに続きオルガンも入る大規模なもので迫力満点。見通しのよい演奏で聞くと興奮さえ覚える。この長い「クレド」の真ん中で折り返し地点を過ぎるように曲が構成されていて、対称的な構造となっている(今回の1927年第1稿の場合)。

全体に賑やかで、宗教的というよりはやや世俗的、さぞイギリス人などが好みそうな曲である。大野和士は2019年、ロンドン交響楽団でこの作品を演奏したそうである。

ハープやチェレスタが聞こえてくると「サンクトゥス」。高音主体の歌唱とオーケストラは次第に熱を帯び、いい演奏で聞いていると散漫さがなく集中力を保ちつつ一気に進む。なかなか出番がないと思っていたアルトが「アニュス・デイ」で活躍し、今回の独唱陣は例えようもなく見事であった。それぞれの音域が明確に示されているので、それぞれの声の質がよくわかる。

さて終盤にさしかかったところで、会場の最上部にいたオルガンの独奏となる。なんとも盛沢山の曲に満足する。そのオルガンの、また素晴らしかったこと。私はあまりオルガンの曲を聞かないが、今回サントリーホールで聞いた「グラゴル・ミサ」の第8曲は、約3分間でしかなかったが、とても贅沢な時間に感じられた。

終曲は、冒頭でも演奏された「イントラーダ」が再演された。再びティンパニが活躍する手慣れた響きに再びあっけにとられているうちに曲が終わった。満場の拍手にこたえて、何度も呼びもどされる出演者は、オーケストラが去った後も続き、充実した2時間の定期演奏会が熱狂のうちに終了した。

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