もっともラヴェルがウィーン風舞曲の作曲を思いついたのは、もう少し早くからである。彼は交響詩「ウィーン」という作品の着想を明らかにしている。それが1914年頃のことで、つまりは第1次世界大戦の前ということになる。この時間的な隔たりが、作品にどう影響したかを考察することが、この作品を理解するための重要な手がかりである。第1次世界大戦は、ヨーロッパにおける大変な惨禍をもたらし、ハプスブルク家の終焉をもたらしただけでなく、従軍したラヴェルの心身をも蝕み、この間に母親を亡くすなど、作曲も満足に続けられないほどに憔悴しきっていたことは良く知られている。
第1次世界大戦の前の後で、ラヴェルを取り巻く環境は大きく変貌した。そしてそのあとにバレエ音楽として作曲された「ザ・ワルツ」(ラ・ヴァルス)は、おおよそ典雅なウィーン情緒とは無縁の、複雑な音楽となった。作曲を依頼されたディアギレフは、この曲を舞曲とは認めず、そのことがきっかけで長年続いた両者の仲は決裂することになった。もしこの間に第1次世界大戦がなかったら、もっと違った作品になっていたのだろうか?これはもはや想像の域を出ない設問である。
「渦巻く雲の中から」とラヴェルは語っている。「ワルツを踊る男女がかすかに浮かびあがってくる」。この雲の向こう側にダンス会場がある。雲の向こうに見える古き良き時代は、もはや世界が取り戻すことのできない世界である。テンポが乱れ、ゆらめき、リズムはかろうじて3拍子を維持してはいるが、これで踊れと言われたら誰もが難色を示すかもしれない。ウィンナ・ワルツはもはや正常な形では踊ることもできないものになってしまった、とラヴェルは考えたのだろうか。その証拠はないし、これは単なる想像でしかない。
今でも続くウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに「ラ・ヴァルス」が演奏されたことはない。フランス人の指揮者、あるいはフランス音楽を得意とする指揮者が登場しても、あるいはリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のワルツが演奏されたことはあっても、ラヴェルのこの作品は取り上げられてはいない。そのうち誰かが取り上げることになるのでは、とも思うのだが、考えようによってはこのような、複雑な気持ちを抱く可能性がある。古き良きウィーン情緒に浸っていたいお正月の気分に、この作品は刺激的すぎるのだろうか?
だが純粋な管弦楽作品としての「ラ・ヴァルス」は、それなりに魅力的である。上記のような背景を知らずに楽しんで聞くこともできる。戦争の前後で変わってしまった世界を意識しなくても、音楽芸術がこの時期、行き場を失って複雑なものになってゆくのは、避けられない事実だっただろう。ウィンナ・ワルツを現代フランス風に表現したらこうなった、という単純な理解で十分かもしれない。
さて、演奏はフランスのオーケストラの醸し出す、ややヴェールのかかった音色に、十分妖艶でかつ色彩感あふれるものを選ぼうと思った。そして、パリ音楽院管弦楽団を受け継いだパリ管弦楽団ほどこれに見合うオーケストラはない。そのパリ管の歴代指揮者のなかで、ひときわ異彩を放つのが、発足直後に急逝したミュンシュの代役として音楽顧問の地位に就いたヘルベルト・フォン・カラヤンである。カラヤンはベルリン・フィルを指揮する傍ら、ウィーンのみならずパリの音楽舞台をも席巻する活躍ぶりだったと言えよう。
ところが「パリのカラヤン」を聞くことはなかなか難しい。Spotifyで検索してもカラヤンのラヴェルはベルリン・フィルを指揮したものが出てくるだけだ。仕方がないから中古のCDをAmazonあたりで探すしかない。そしてEMIがリリースしたかなり古いCDしか、これに該当するものはなさそうだった。私が今日聞いているのもそのCDである。このCDはかなり魅力的で、「ラ・ヴァルス」を筆頭に「スペイン狂詩曲」「道化師の朝の歌」そして「クープランの墓」が収録されている。いずれもカラヤンの精緻で職人的な技術が、フランス音楽にも的確に適合し、その魅力を伝えて止まないことがわかる。これは驚異的なことではないか。
大阪万博の年である1970年に、パリ管弦楽団は来日している。しかしこのとき同行した指揮者はカラヤンではなく、ジョルジュ・プレートルらだった。カラヤンはパリ管との相性があまりよくなかったといわれている。そして両者の関係はわずか2年しか続かず、1972年にはパリを離れている。それゆえに、この期間の録音は貴重だとも言える。
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