ラヴェルのピアノ協奏曲の特徴は、何といってもアメリカ旅行で影響を受けたジャズの要素ではないだろうか。第1楽章のリズミカルなタッチは、聞いているだけで興奮を呼び起こすだけでなく、明るく色彩感に溢れて陽気である。このころラヴェルはすでに病に侵されて、予定していた南米やアジアへの旅行も叶うことができなかったようだが、初演は大成功を収めた。もしラヴェルがもう少し長生きし、こういった国々の影響を持つ曲が生まれていたら、どんな素敵なことだっただろうかと思う。
音色の多彩さは、ピアノ協奏曲にはふだん使われない楽器にも負っている。冒頭、鞭がパチンと鳴り、ピッコロも聞こえてくる。わずか20分余りの短い曲に様々な音楽要素が満載。若手ピアニストがテクニカルに演奏すると、冴えわたった空間にまるで虹のような光線が飛び交う。
だが、この曲の最大の魅力は何といっても第2楽章である。ここを聞くとき、何と美しい曲なのだろうかと思う。夜の川辺を歩いていると、水面に映る灯りが揺れる。夏が終わりを告げ、ちょっと生暖かい風が頬を撫でる。疲れを感じつつも、ようやく迎えた癒しの季節。しばしやすらぎに心を委ね、繊細で浮き上がるようなピアノに聞き入る至福のひととき。単純なのか、複雑なのか。感傷的なのか、冷静なのか。音楽の魔法は私の脳に、麻薬のような陶酔感をもたらす。
不思議な音楽である。これをずっと聞いていたい、と思う。だが、消え入るように第2楽章が終わると、そこに登場するのは「ゴジラ」の音楽だ。全編に亘ってジャズの要素が絶えることはないのだが、一口にジャズといっても実に様々である。映画「ゴジラ」の音楽が、ここの第3楽章から来たのは明らかだが、それは作曲した伊福部昭がラヴェルの作品、とりわけピアノ協奏曲にほれ込んでいたというエピソードからも明白である。
若い情熱的なピアニストが、気鋭の指揮者と組んだ演奏、たとえばアルゲリッチとアバドの最初の録音は、私がこの曲を最初に聞いた時の演奏だが、そういう若手のエキサイティングな演奏も忘れられないものの、その後出会ったこの作品の愛聴盤は、より年配の熟年コンビによる演奏だった。アメリカ人の指揮者レナード・スラットキンが伴奏を務めるアリシア・デ・ラローチャの演奏がそれである。
このCDが発売されたとき、私は何か名状しがたい魅力を感じ、迷わず購入した。「左手」のピアノ協奏曲と、「優雅で感傷的なワルツ」なども併録されているが、やはり「両手」のピアノ協奏曲ト長調に尽きる。スペイン人ピアニストのラローチャは、モーツァルトのピアノ協奏曲で名を馳せ、このころには2度目のサイクルをRCAに録音中だったと思う。その時にやはり2度目となるラヴェルの協奏曲も発売された。
ここでラローチャは、天性の素質を生かして気品に満ちた演奏を繰り広げるが、それをもっとも感じさせるのが第2楽章であることは言うまでもない。スラットキンのゴージャズなサポートと優秀録音のお陰で、比類ない完成度を保ちつつ、余裕すら感じさせる風格をさりげなく醸し出す。特にコールアングレとピアノの二重奏となる部分は、全体の白眉である。
この時すでに70歳にも達していたラローチャのテクニックが、この難曲を演奏するに十分なものかという意見も見たことがあるが、これだけ年期の入った熟練ピアニストでなければできない表現というのも事実であろう。と、ここまで書いて、今日も今から夜の散歩にでかけることにしようと思う。もちろんラローチャのラヴェルを聞きながら。
0 件のコメント:
コメントを投稿