2025年12月9日火曜日

NHK交響楽団第2052回定期公演(2025年12月5日サントリーホール、ファビオ・ルイージ指揮)

イタリア・ジェノヴァ生まれの指揮者ファビオ・ルイージが、パーヴォ・ヤルヴィの後任としてN響の首席指揮者に就任してから三年が経過した。ルイージとN響の関係は、観客の好みを超えて一種の発展と成長を遂げ、そうでなければ到達し得なかったであろう音楽的表現のレベル、関係性を獲得しつつあるように思えてくる。9月定期のメンデルスゾーンにも、今回のサン=サーンスにも、同様の傾向が感じられた。

直線的でこれ以上ないスピード。体を大きく揺らしながらそれにくらいついていくN響メンバーからは、かつて見たこともないエネルギーが感じられる。各プレイヤーは身を乗り出し、必死の形相でさえある。何か一線を越えたような表現力、それを生み出す開き直ったような覚悟とエネルギーが、首席以外のプレイヤーからも如実に感じられる。このさまはライブで演奏を見る楽しみでもある。上品な日本のオーケストラで、このような果敢で集中力の高い演奏は、かつてあまり感じられることはなかった。もっともそれを成功させているのは、各プレイヤーの高い技量が前提になっているのだが。

そのようにしてルイージのN響は、今やかつてない高みに達しているように思えてくる。12月定期を聞いて、その思いを新たにした。B定期2日目、クリスマスの飾り付けがこのシーズン独特の華やかなムードを高める中、3つの曲が演奏された。まず我が国を代表する現代の作曲家、藤倉大の新曲で、N響委嘱作品の「管弦楽のためのオーシャン・ブレイカー~ピエール・ブーレーズの思い出に~」。勿論世界初演である。渡された解説によると、この作品はロンドン在住の藤倉が見つけた雲の本にインスピレーションを得て作曲したとのことである。しかし題名に「オーシャン」という名詞が使われており、これは「雲」をヒントに「海」をモチーフとして描いた作品ということになるのだろうか。

いずれにせよ、「雲」あるいは「海」が持つ絶え間ない分子の動きと光、あるいはその変化を音にしている。少なくともそういう風に聞くことになる。オーケストラは大編成で、ヴィブラフォンも登場するが、音楽自体は親しみやすい。テンポがあまり動かないからかも知れない。激しい部分もあって、聞いたことがない楽器の組み合わせによる音の変化を楽しむ。ルイージは丁寧にこの曲を演奏し終え、舞台から作曲家が登場すると大きな拍手に見舞われた。約15分の曲だった。

ピアノが中央に配置され、続くフランクの「交響的変奏曲」が演奏された。ここでピアノ独奏を務めたのは若きイスラエル人の俊英、トム・ボローであった。もっとも私はこの曲を聞いたことがなく、丸でピアノのための小協奏曲のような佇まいを15分余りにわたって楽しむことになった。フランクはベルギーの作曲家だが、フランス音楽に分類され、実際、フランス風のメロディーが聞こえてくる。

ピアノの音からは、自信たっぷりにほとばしる若いエネルギーを感じるので、そのことが何か嬉しいのだが、特にアンコールとして演奏されたJ. S. バッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV1006」から「ガヴォット」(ピアノ版、ラフマニノフ編)の方が、何か彼自身の瑞々しさをストレートに伝えていたように思う。もっといろいろな作品(特にベートーヴェン)を聞きたいと思った。

後半のプログラムはサン=サーンスの「オルガン交響曲」であった。サントリーホールの正面に設えられたパイプ・オルガンの前に登場したソリストは、近藤岳であった。作曲家でもある彼は、ときどきNHKの音楽番組にも登場しているそうである。

この「オルガン交響曲」を何と形容すれば良いのか迷うのだが、冒頭に書いたようにめっぽう速く、一気に演奏されたので、その様子に見とれているうちに終わってしまった、という感じである。とにかく第1楽章が始まると直に、並々ならぬ勢いでグイグイと進むさまは壮観でさえあった。第1楽章の後半、すなわち通常の交響曲では第2楽章に相当する緩やかな部分は、いよいよオルガンが登場して通奏低音のように底を支え、弦楽器から大変にロマンチックなメロディーが聞こえてきてうっとりする曲である。ところが今回の演奏は、そういう部分に酔う間を(少なくとも私には)与えてくれなかった。

迫力に満ちた第2楽章は、打楽器やピアノも交じって大変カラフルな曲だが、ここでもルイージは煽るかのようにオーケストラをドライブし、それに食らいついてゆくオーケストラとのやりとりを見るのは、奮い立つような時間だ。こういう演奏は実演でしか見ることができないとも思えてくるので、これは貴重である。ともすれば我々は、録音されたメディアでの音楽体験に依存しずぎているのが事実で、本来音楽は実演で聞くものである、ということを思い出させてくれる。

ルイージの指揮は、まるでトスカニーニが生きていたらこんな演奏だったのかなあ、などと少し考えてみたりしたが、つまりは空回りしているわけではなく、オーケストラが一皮むけた状態で必死になっている。かつてのN響ではなかった光景が生まれつつある。そのような関係性を構築し、完成度を高めつつあるこのコンビは、そこそこ評価されてよいだろうと思う。だが、音楽そのものに魂が宿っておらず、どこかに置き忘れてきた感がある。その結果、後から考えてどのような音楽だったかを思い出すことができない。つまりは心に残らないような部分がある。そこが今後の課題であり、リスナーとしての注目すべき部分だと思った。

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