まだCDが出始めた頃で、タイトルは輸入盤が中心でごく僅か。値段はそれでも一枚3500円した。LPにない魅力をうたったCDは、まだ高嶺の花だった。私が小遣いで買うことはできないし、したくない。むしろ安くなる一方のLPにこそ、手を出していた。
そんな私が初めて自分のお金で買おうとしたCDが、カラヤンの「英雄の生涯」だった。もっともカラヤンの新盤くらいしか、レコード屋に置かれていない。それも隅っこの方に申し訳程度。これでは、選択肢がほとんどない。そのような中で、カラヤンの「英雄の生涯」は、自身のCD第1号に相応しいと思った(思うことにした)。1986年、40年前にことである。そして受験がすべて終わったその日が、ついにやってきた。
私は試験会場を後にして、大阪ミナミの道頓堀に近くを彷徨しながら、レコード屋を探した。普段はキタのレコード屋(ワルツ堂や大月楽器)に行くことにしていたが、堺市の大学を受験したので、難波界隈での買い物を試みたのだ。ようやく訪れた解放感に浸りながら、ゆったりと人混みの中を気分良く歩いていると、長かった受験生活の間に硬直して固まった緊張が、ゆるゆると解けていくような錯覚に見舞われた。
心斎橋近くに小さなレコード屋を見つけ、中に入った。ところがCDなど置かれているようには見えない。ましてクラシックのコーナーなど片手のてのひらで厚さを計れるほど小さいスペースである。これではCDなど買えるはずがない。しかし、CDは今日買って今日聞きたい。何せ、受験が終わった記念の日の、自分へのささやかなご褒美なのだから。
そのレコード屋には、それでも数枚のクラシック音楽CDが並んでいた。店員に頼んで見せてもらうほど高い位置にあって、どんなタイトルかわかりにくい。もっともジャケットが黄色いので、ドイツ・グラモフォンのCDであることはすぐにわかった。となれば、カラヤンのCDもあるに違いない。私はリリースされたばかりの「英雄の生涯」を探した。しかしあいにく「英雄の生涯」は売られていなかった。仕方なく、私は代わりにカラヤンが指揮するチャイコフスキーの交響曲第4番(ウィーン・フィル)のものを買って帰った。音楽の性質は、まったく違う。「英雄の生涯」が自尊心に溢れた若きエネルギーを感じる陽性の曲なのに対し、チャイコフスキーの方は、自身を失って挫折状態から、空虚な勝利妄想に至る神経症のような曲だ(と当時の私は考えていた)。
帰宅してさっそくチャイコフスキーのCDをかけていると、もしかすると自分の今の気分に合っているのは、むしろこちらではないか、と思うようになった。受験の出来栄えが、あまり芳しくなかったからである。しかし2週間後には合格が発表された。私はその学校が第2志望だったので、進学こそしなかったが、そのような受験の日々を懐かしく思い出す。
前置きが長くなった。ではその時買おうとしたカラヤンの新盤「英雄の生涯」はどうなったか。それから十年近くも経過してCDの値段も落ち着き、私は上京してサラリーマン生活を送っていたから、あるとき池袋のHMVで思い出したようにこのCDを買った。45分程度の曲なのに、CDにはこの1曲しか収められていない。西ドイツ製。もっともカラヤンには、59年の録音もある。晩年のデジタル録音がいいとは限らないので、これは私の個人的な思いの入った選曲であることをお断りしておく。
若いリヒャルト・シュトラウスが書いた交響詩の中では最後に位置するのが、この「英雄の生涯」である。正式には「大オーケストラのための交響詩」となっていて、105名のプレイヤーを要する大曲である。ここで「英雄」とは、歴史上の人物でもなければ、ナチスの党首でもなく、作曲家自身を指すと言われている。なんとも自惚れた曲だが、そのあたりが面白いと思った。ということは第3部の「英雄の伴侶」は、恐妻家で知られるシュトラウスの妻が描かれているということになる。ここで登場するヴァイオリン・ソロ(コンサートマスターが弾く)は、最初めっぽう粗くて起伏に満ち、時に高音を発するヒステリックな音楽である。
音楽で表現できないものはない、と語ったシュトラウスは、このような方法で妻へのささやかな攻撃を試みた。なんともいじらしく、微笑ましい話のように思える。いや切羽詰まった思いの吐露か。ただ大作曲家にはほかにも多くの敵がいた。それは批評家である。ただシュトラウスのために言っておくと、「英雄」が自身を指すということは公式には述べられていない。従って余計な雑念を配して聴くのが良い、とされている。
さて、「英雄の生涯」は以下の6つの部分から構成されている。ただし、音楽は続けて演奏される。
- Der Held (英雄)
- Des Helden Widersacher (英雄の敵)
- Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)
- Des Helden Walstatt (英雄の戦場)
- Des Helden Friedenswerke (英雄の業績)
- Des Helden Weltflucht und Vollendung der Wissenschaft (英雄の隠遁と完成)
大音量のゴージャスな響き、親しみやすい旋律、数多くの楽器やソロパートを聞く楽しみ、そしてそれらが重なり合い、うねりとなって進行するさまは、まさにオーケストラを聞く醍醐味といっていい。人気があるからだろう。毎年数多くの演奏会でこの曲が取り上げられる。録音の数も多い。演奏会に行くと、有名なフレーズの練習に余念がない団員が、早くも舞台上で直前のおさらいをしている。
勇壮な冒頭から一気に引き込まれ、気が付いたら第2部になっているという感じで音楽はスタートする。この冒頭は一度聞いたら忘れられないが、主題のメロディーは何度かあとにも登場する。力強くて威勢が良く、若きエネルギーを感じさせる。
それに対し第2部は、「英雄」敵が登場する。彼らは批評家なのか無理解な聴衆なのか。いずれにせよ、ここは暗く焦燥感に満ち、心が安定しない。
第3部になって女性が登場。この女性、キンキンと声を張り上げて奔放に振舞うが、芸術家である英雄は煮え切らない態度である。そのやりとりが比較的長く続くが、ここはソロ・ヴァイオリンの腕の見せ所となっている。私の所有するカラヤンの新盤では、レオン・シュピーラーが弾いている。
この第3部は結構長い。そして後半になると芸術家の心も解けて相愛となり、ロマンチックな愛の情景が描かれる。このような音楽はシュトラウスの十八番であって、ヴァイオリンを絡めながら壮大な情景が繰り広げられてうっとりする。
舞台裏からトランペットが鳴り、小太鼓の音が聞こえてくると第4部に入る。3拍子。戦場。ということは、作曲家は芸術に邁進し、新しい境地を次々と切り開く時期ということか。格闘するのは敵なのか、それとも芸術的理想なのか。いずれにせよ最終的には大勝利を収め、音楽はクライマックスを形成する。人生の絶頂期。だがこの曲を作曲したシュトラウスはまだ30代である。
第5部。「ドン・ファン」のメロディーが聞こえてきて驚くが、それ以外にも数々の交響詩の音楽がちりばめられているようだ。やはりこれはシュトラウス自身の業績とその回想である。成功した英雄は、心穏やかな平和な日々を送る。現代に置き換えれば、さながら引退直後の60代といった感じだろうか。一仕事を終えてなおまだ健康を害してはいない。だから、この時期にこそ人生は謳歌すべきである(と私は思うことにしている)。
第6部は、高齢者となった英雄の最期である。イングリッシュ・ホルンが印象的。体が弱り、穏やかな隠居生活に入るのだろう。過去を振り返りつつ、伴侶に看取られて世を去る。壮大なコーダとなって、音楽は感動的に終わる。
この音楽を演奏するのに、カラヤンの右に出る者はいない、と思った。その考えは今でも変わっていない。何度も録音しても良さそうな曲だが、59年の古い録音と、74年のEMI盤、そしてデジタル時代の85年盤が良く知られている。ここで取り上げたのは84年版。久しぶりに聞いて、やはりいいな、と感じる。CDの時代が去って久しいが、このCDは最後まで手元に置いておきたい。
この新しい録音が再度リリースされた時には、「死と変容」が収められていた。一方、59年盤を聞くと演奏自体はさほど変わらないが、より引き締まった感じがする。ヴァイオリン・ソロのミシェル・シュヴァルヴェが素晴らしい。そして余白にはワーグナーの「ジークフリート牧歌」が収録されている。音楽配信が主流の今では、まあどうでもよいことなのだけれど。

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