ハイドンの交響曲を初期のものから順に聞き続け、とうとう80番台に突入した。「パリ交響曲」まであと一息である。この曲の演奏を、古くから定評のアンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカの演奏で聞いてみた。
ニ短調のこの曲は、愛すべき曲である。聞くほどに深い味わい。特にこのドラティの演奏で聞くとそう感じる。この曲のこの演奏は完成度が高くて曲の魅力を伝えてやまない。全曲、全楽章と通して同じようなトーンが貫かれ、短調の暗くて劇的な要素よりは、しみじみと哀しく、それでいて優雅である。少し素人じみた思いつきだが、どこかシューベルトを思い起こさせる。
特に第1楽章から第3楽章までは、私のお気に入りの曲である。第1楽章の簡潔にして見事な表現は、ハイドンの短調の中では傑出しているのではないだろうか。 こう書くと逆節的だが、ドラティの演奏は古楽器奏法全盛の昨今にあって、何かとても新鮮である。
第2楽章は第1楽章を受けてその哀しみを深めていく。そのつながりは、第1楽章あっての第2楽章で、傾向が一貫している。哀しさを通り越して美しく孤独である。だが、救いようがないものではない。あくまで古典的な枠の中での表現で、モーツァルトのように内省的過ぎもしない。ロマン派の曲を聞いてくると、このような曲は何か物足りない印象もあるが、私には完成度が高く大いに好ましい。
第3楽章メヌエットは、これまでの2つの楽章の流れを受け継いでいる。ほのかな暗さは、決して内面的な悲しさというものではない。言ってみればブルックナーのような曲が、この流れにあるような気がした。だが第4楽章については、何となく雑然としていて少々損をしているように思われた。この楽章は比較的明るく展開するし、特につまらないというわけではないのだが、何となく中途半端に感じるのだ。だが前半の充実は、それを補って余りあると思われる。
かつてハイドンの交響曲全集と言えば、ドラティ盤のみが孤高に存在していた。初期の作品など、この演奏がなければ触れることができなかった時代が長く続いた。しかし確かLPにして何十枚という全集を買うだけの余裕は、一般的なリスナーにはなかっただろう。CDの時代になって、数多くの古楽器演奏が登場し、このような曲でも探せば数多くの演奏が手に入り、いずれもが見事な演奏のようだ。だがここでドラティの演奏に立ち返り、この試聴記においても敬意を表しておこうと思う。以降の作品では、あまりに多くの演奏がひしめいているので、ドラティの演奏を取り上げる機会は、今のところもうないと思えているからだ。
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