2012年8月28日火曜日

東海自然歩道②(泉原~摂津峡)

夏に再び泉原を訪れた時に、私たちは中学生になっていた。上音羽の農道を標識に従って歩いていたら、畑作業をしていた農夫が私たちを呼び止めて、何やら話してきた。訛りがひどくて何を言っているのかよくわからなかったが、よく聞いてみると「研究しとるんやろ」というようなことを言っているのがわかった。「研究?」私たちは顔を見合わせたが、農夫はにこりと微笑んで私たちの行く方向を教えてくれた。

「研究」という言葉が長い間私の頭から離れなかった。一体何の研究をする目的で歩いていたというのだろうか。だが今ではその「研究」がこういうことではなかったかと想像している。

上音羽と 千提寺の集落は、昔から隠れキリシタンの里として知られていた。高槻の城主だった高山右近は、信長の時代にクリスチャンとなり、以後、江戸時代に入ってもキリスト教を捨てなかった。ここの集落一体は、その当時に追放されたキリシタンが隠れて暮らしたことで有名となり、今では博物館も立っているが、当時はまだそのような建物はなかった。私が調べたところでは、その末裔がキリシタンとして公になったのは、何と大正時代になってからだそうだ。

そのような高山右近は、丁度この近くの高山という集落で生まれた。今でも地名が残るその場所は、北摂霊園の入口付近の、それは小さな村落である。しかしここには「隠れマリア像」が残り、「高山城」というお城まであった(写真は北摂霊園から見た高山集落。2012年撮影)。

高山右近は加賀からマニラへ逃れ、キリシタンとしての生涯を終えるが、その様子はNHKの大河ドラマ「黄金の日々」を思い起こさせる。その後私はポルトガルとの交易に興味を持ち、リスボン、マデイラ、マラッカ(マレーシア)、マカオなどを訪れたばかりか、長崎、平戸といった隠れキリシタンの村にも足を運んだ。遠藤周作の小説「沈黙」は、後年に読んで感銘を受けたが、そのキリシタン体験の私の原点というべき上音羽集落を通って、竜王山へと向かった私たちは、その農夫からキリシタンのことを夏の自由研究にでも調べていると思われたのかも知れない。

急激に山を上り、頂上といってもさして景色もよくないひっそりとした竜王山で昼食を取ったあと、急速に山を下ったところに千提寺があり、その境内を通って再び山道に入るという面白いコースをたどったが、真夏の平日にこのようなところを歩く人もおらず、山道を通ると何やら蛇らしきものが逃げていくような体験もした。

車作という名前の集落に出ると、ここはダンプカーがひっきりなしに通る騒々しい府道を歩かねばならなかった。集落は山間の古いところだが、どういうわけかこの場違いな光景が私たちを印象付けた。騒音を立てて走るダンプカーに轢かれまいと注意しながら、私たちは何の面白みもない林道に入った。勾配がさしてあるわけでもないこの林道は、どのくらい長く続いたかわからない。まったくもって人影もなく、しかも単調な林道で、山道でもなく集落でもない、おそらく東海自然歩道の中でもっともつまらない部類の道である。

だが私たちはここをかなりの早足で歩いた。その方が速くここを脱することができる、という思いからだが、それには理由があって、夏の夕立が迫ってくるような感じがしたからである。積乱雲が立ち込め、いつ雷がなってもおかしくはなかった。強い日差しと目が眩む様な猛暑の中を、私たちは摂津峡を目指して急いだ。再び山道に入って、蜘蛛の巣をかき分けながら清流が見えてきた時には、雷が鳴り響き、大粒の雨がたたきつけるように降ってきた。ここでキャンプをしていた人たちも退散して、すっかり人はいなくなっていた。私たちは一目散に走り、そして摂津峡のバス停にたどり着いた時にはびしょぬれであった。

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