東京まで続く東海自然歩道の第一歩は、箕面の滝をさらに上ったところにある「政の茶屋」で、ここには大きな看板が立てられ、その横から上りの階段に入っていく。自然探索路ともなっているここから勝尾寺あたりまでは、歩く人も多く、道幅も広い尾根道である。休日でなくてもリュックを背負った行楽客が、時おり後を振り返りながら登っていく。休憩したり立ち止まったりするたびに追い付かれたり追い抜いたりしているうちに、開成皇子の墓にたどり着く。ここが一番上で、いわば頂上である。
勝尾寺(写真。ただし2010年の頃のもの)はこのあと急激な下り坂を降りれば10分程度で到着するが、逆に勝尾寺から登ると30分くらいかかる。だからこの時私たちは勝尾寺へはよらず、そのまま北摂霊園の方を目指した。道はこのあたりから狭くなり、通る人も少なくなる。
早朝に千里の自宅を出たものの、昆虫館へよったり猿と「鬼ごっこ」をしているうちに、早くもお昼の時間になってしまい、開成皇子の墓の近くで昼食のお弁当を食べた。小学生の四人組というのも珍しいのだろうか、すれ違う人はにこやかに挨拶を返してくれるが、そのような出会いも勝尾寺への分岐までであった。
私たちは国土地理院の発行する二万五千分の一の地図に赤く線で塗りつぶした道を、迷わないように注意しながら進んでいったが、北摂霊園を左手に林道へ下る頃には、人影もなくなり、背丈を超えるような草が生い茂っているような、淋しい道を進むことになった。基本的に分岐がない間は、東海自然歩道の標識がない。このため迷っても気づかない恐れがある。私たちは早くも不安になり、何度も地図とガイドブックを読み比べながら、もう暗くなりかけた砂利の林道を進んでいった。すれ違う人も、車も何も通らない。私たちはもうあまり会話をしなくなり、今日は次の集落までにして帰ろう、などと話し合った。
そこに一人の若者が前を歩いていることに気づいた。二十歳位の彼は、結構大きなリュックを背負っており、野宿も覚悟のハイカーに思えた。我々は小学生で軽装である。我々が追い抜こうとした時に視線があって、「こんにちは」などと話しかけた。その大学生(と思われた)は、我々ににこりと微笑んで、どこから来たのか、どこまで行くのかなどと聞いてきた。こちらも聞いてみたと思う。このようなところを歩いているのは、東海自然歩道のハイカーに決まっていた。私は彼もこれから相当何日もの間歩き通すのだろう、一体どういう理由でこのようなことをしているのか聞いてみたくなった。
だが荷物の大きな彼は、我々より相当重い足取りだった。少しの間一緒に歩いたが、やがて彼は「気を使わないで、先に行っていいよ」というようなことを言ったと思う。私たちは暮れてゆく山中の人もいない林道が淋しいので、何とも心苦しかったが先を行く事にした。優しそうな青年だった。彼は私たちをどう思ったのかわからない。だが、彼も何かとても嬉しそうだった。
大阪府茨木市に入っていた。小さい時から自動車で何度か通った集落が、ここの泉原というところだった。ここも大阪か、と思うような山里の村は、静かで、なかなかの風情がある美しいところをある。東海自然歩道の面白さは、そのような山里の家の路地裏を通り抜けることにある。道が分岐するたびに共通様式の看板が立ててある。その標識をたどりながら、泉原の集落を降りてゆくと、そこには阪急バスのバス停があった。時刻表で調べてみると、茨木市行きのバスがもうすぐ来ることがわかった。
私たちは、そのバスに乗ることにした。ここで帰らないと、次の集落がどこで、どこから帰られるかわからない。だから私たちは無理をしないことにしなのだ。もちろん頭には次のことがあった。次回はここに再び来て、そのあと摂津峡まで歩けば丁度いい距離で区切りがいい。そういうわけで私たちは、ここでハイキングを中断した。実際に歩いてみると、いろいろなことがあって楽しい一日だった。このことがきっかけになり、このハイキングはその後、4年間、全部で12回にも及ぶ行程になったのである。
2012年8月27日月曜日
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