
「レクイエム」は4人の歌手と合唱団を必要とする。規模だけで言えば、ベートーヴェンの第9と同じだが、当然のことながら独唱も合唱も出だしから大変な実力が要求される。加えて管弦楽は「怒りの日」を筆頭にこれまた大変な迫力で、力の弱い演奏だとつまらない。それらを統率する指揮は、単に力任せであればいいというわけではなく、音楽を揃えるのは勿論、独唱や合唱の各パートの強弱にも配慮し、ピアニッシモにおいても緊張感を持続させなければならない。つまり大変な難曲であろうことは、素人にも想像に難くない。
そのヴェルディの「レクイエム」を、NHK交響楽団は生誕200周年の今年、定期公演に加えた。丁度今年は私もこの2大巨匠の音楽を聞き続けているので、これを逃すことはできない。そして私にとって2度目の「レクイエム」の演奏会である。前回は2001年8月の新日本フィル(指揮は佐渡裕)で、それから比べると私は随分ヴェルディに詳しくなった(はずである)。その結果、聞き方にどのような違いが生じるかといった興味もあった。出演者は以下の通り。
独唱:マリナ・ポプラフスカヤ(S)、アニタ・ラチヴェリシュヴィリ(Ms)、ディミトリ・ピタス(T)、ユーリ・ヴォロ日エフヴォロビエフ(Bs)
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:セミョーン・ビシュコフ
プロフィールを見るまでもなく、この布陣は第一級のヴェルディ歌手と、我が国屈指の合唱団の組合せである。ビシュコフは最近の活躍がめざましく、そう言えばMETの「オテロ」は彼の指揮であった。そういうわけでこれはなかなか力の入った演奏会であろうと思われた。
実際の演奏は、それを証明することになった。客席は満席ではなかったが、多い方である。そして演奏が終わると、しばし沈黙が続いた。オーケストラが静かに音を慣らし終えてから、10秒以上は経過しただろうと思う。誰かが待ちきれなくなってブラボーを叫ぶまで、指揮者はタクトを降ろさなかった。会場の拍手は次第に大きく膨れ上がり、何度も何度も呼び戻された出演者は、大きな歓声を受けていた。
新国立劇場合唱団は各パートのそれぞれが異なるメロディーを歌っても乱れることはないばかりか、その強さのミックスとバランスは絶品であった。最前列のソロ歌手と、後方から発する合唱の音が、奥行きを持って重なりあう様は、冒頭の「レクイエム」という歌詞の時から明らかだった。
当初は着席したままで歌った合唱は、しばらくしてソロが歌い出すと同時に起立した。ソプラノのポプラフスカヤは、もっとも印象に残ったが、それ以外の歌手が悪かったわけではない。ビシュコフの指揮はダイナミックで迫力があり、細かい表情でも決しておろそかにしない音楽作りには好感が持てた。この様子はテレビ収録されていたので、今度放送された時にはもう一度見てみようと思う。
さて、ヴェルディのレクイエムだが、これは宗教音楽なのか、それともオペラの延長なのか、という論争が常につきまとってきた。音楽的な充実度がありすぎる結果だろうと、今回聞いていて思った。晩年のオペラ作品から華やかなアリアなどを取り除くか、ないしはそれをセイクリッドな音楽に書き換えればこのような作品となるのだろうか。そもそも教会の音楽は、華美であってはならないという伝統がある中で、ロマン派の作曲家がそのような「枠」を打ち破らざるを得なかった。だがそのようなミサ曲をめぐる論争は、何もヴェルディの作品にのみ向けられるべきではないだろう。
これはヴェルディのレクイエムであり、ヴェルディにしかかけなかった作品として今でも演奏され聞けることに感謝せざるを得ない。力強い合唱が管弦楽と一体となって手に汗を握る部分があるかと思えば、独唱とわずかな管楽器のみでメロディーを歌う部分が多い。この「静かな」部分は、ヴェルディの中期以降のオペラで顕著となるドラマ性を帯びた響きに似たものだ。歌詞はレクエイムのミサなので、物語性があるわけではない。ここには音楽それ自体で語る力がある。ソロ歌手がひとり歌う部分において、あらゆるものを削ぎ落した「声」そのものの力・・・その力の重なりと連続によって、「ドラマチックなレクイエム」というものが登場することとなった。
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