私は1995年の春、そのメトロポリタン歌劇場のあるニューヨークに住んでいた。その年のシーズンでも「パルジファル」は上演された。 4月に3回の公演があり、私の同僚が私に質問をしたのを覚えている。彼によれば、彼の友人がわざわざメトの「パルジファル」を観るために、日本から飛行機でやってくるというのである。「それがどうしたの」を聞き返す私に彼は、「オペラというのはそんなにまでして見たいものなのか?」と半信半疑で訊いて来るのだった。正直に告白すれば、私は当時「パルジファル」を知らなかったし、ワーグナーの楽劇どころかほとんどのオペラについて知識がなかった。それでもクラシックが好きだという私に、同僚はそのような質問をしわたけである。
私としては「よくわからない」などと正直に答えるのはクラシック通としての体面に関わることなので、「オペラとはそういうものなのよ」などといい加減に答えたが、その「パルジファル」はそれからも20年に亘って私にとって「秘曲」であった。ワーグナーがバイロイト以外での上演を禁じていたという「舞台神聖祝典劇」は、最近でこそ各地で上演されるようになったものの、その難解さもあり私にとっては取りつきにくい作品で在り続けた。そう、昨日映画館で観るまでは。
インターネットで当時のキャストを調べてみた。1995年4月22日の上演では、主題役パルジファルがプラシド・ドミンゴ、クンドリがギネス・ジョーンズ、グルネマンツにロバート・ロイド、クリングゾルにドナルド・マッキンタイアなどとなっている。同僚の友人はこのキャストを見て、ニューヨーク行きの飛行機を予約したことになる。指揮はもちろんジェームズ・レヴァインであった。
その「パルジファル」を私もとうとう知る機会が訪れた。といっても映画館での上演なので、本物というわけではないのだが、閉ざされた状態で字幕付きの映像を5時間以上にわたって観るという機会は、一生を通じてもそうあるものではない。私はもちろん会社を早退し、体調を整えて上演に臨んだ。前後左右に人のいない席を確保するのは勿論のこと、夕方5時に始まる長丁場を乗り切るため事前に軽い夕食を済ませ、ミネラル水とスナックなどを買い込み、売店ではワインも買って持ち込んだ。寒さ対策にセーターを用意し、ネクタイを外して席に深々と腰掛けた。
私は「パルジファル」を観るに際し、2つのことを守ることにした。まず眠くなっても我慢しないこと。そしてストーリーを追わないこと。睡魔との戦いはワーグナーの常だが、前日に睡眠導入剤を用いて十分眠っても、仕事後の当日の眠さにはかなわない。ワーグナーの楽劇においては、たとえ数十分の眠りであっても、場面がそう展開することはない。実際「パルジファル」の舞台は、いつまでたっても人が動かない予想通りのものだった。
ストーリーについては・・・ああ、なんという事か・・・それまでも何度予習しても頭に入らないではないか。登場人物も含め、誰がどういう人物か事前に頭に入れようとしても、他の作品のように入って来ないのである。それで私はあっさり諦めることにした。それよりは音楽に浸ればいい、ということである。だがその音楽も・・・私にはこれまでほとんど無縁であった。これは「指輪」とも異なる深刻な事態で、「指輪」では長い我慢のあとにあの有名な音楽が高らかに鳴り響くことが予めわかっている!私にとって「パルジファル」は、それとも無縁なのである!だが「パルジファル」を避けたままで一生を終えたくはない。そしてそのためにはやはり一度は通らなくてはならない関門が存在するのである。
イエス・キリストが十字架上で処刑された際に血を受けたという「聖杯」と、脇腹に刺された「聖槍」は、聖遺物としてヨーロッパ各地に伝えられている。聖杯をめぐる様々なキリスト教の儀式が、このオペラに登場する。
第1幕の約2時間に及ぶ老騎士グルネマンツによるモノローグ主体の音楽は、冒頭の前奏曲からどこか遠くの違う世界へと誘うようだった。しかし今回の演出はこの精神的な世界を、現代に設定している。その結果、黒いズボンに白いシャツを来た騎士たちが舞台一面に登場することになったが、何かサラリーマンの一団がいるかのような違和感がある。それはまあ仕方がないのだろう。演出のフランソワ・ジラールは、この世離れした内容の作品を、現代に上演する意味を問いかけているからだ。身近なものになろうとした舞台は、ほとんど動かない。それで私は瞬く間に睡魔に襲われた。
目が覚めたのは、自分の名前も知らない愚かな青年(パルジファル)が、白鳥を捕まえて登場するシーンである。母親はヘルツェライデという名前だが、息子には武器をあたえなかったという対話のシーンが私にはなぜか記憶に焼き付いている。
第1幕の終盤は、モンサルヴァート城での聖杯の儀式で、崇高な音楽が全体を覆う。城主アンフォルタスの負った傷が癒えない中で、結局グルネマンツは若者を追い出してしまうところで幕となる。このあたりの音楽はこの上なく美しく、私の心を洗うかのようだった。その幕切れでは拍手されないことが慣例となっている。だがメトの観客は幕が閉まるのを待たずに拍手をする人がいた。そのことが少し、気になった。

第2幕の乙女たちの誘惑のシーンは、ワーグナーらしい音楽の連続である。すこし下世話なストーリーがないとワーグナー的には物足りないなどと思っていたらこの話が登場し、私は何か嬉しくなった。魔法使いのクリングゾルはエフゲニー・ニキティンという歌手だったが、彼は手先のクンドリに若者を誘惑するように命じる。ところが自分の名前を悟ったパルジファルにクンドリが接吻すると、パルジファルは一気に人間の苦悩を理解する。クリングゾルと乙女たちがパルジファルを目がけて矢を放つが、それはパルジファルに当たることはない。この第2幕は赤い色に着色された水の上で行なわれ、乙女たちやクンドリ、それにパルジファルは徐々に濡れて赤く染まりながら歌う。その変化が印象的だ。
ワインを片手に見ていた舞台もいよいよ第3幕となった。だがここで私はかねてからのドライアイによる目の痛みにさいなまれることになった。字幕を読むために目を開けるが、読み終えると目を閉じる。そのようにして理解するストーリーも、さほど変化が急ではない。第1幕と同じ、まるで月面を思わせるような荒涼とした風景の真ん中には、一本の水路があって水がチョロチョロと流れている。ハイビジョンの映像は、そのようなところまでリアルに見せる。パルジファルの足や頭を水で清めるシーンなどは、映像としては印象的である。
舞台後方に設えられたスクリーン一面に、月から見た地球のような大きな丸い星が浮かび、空には雲が流れている。その幻想的な光景は一生忘れることができないほど美しかった。ペーター・マッティの演じるアンフォルタスと、再び登場したグルネマンツを始めとする騎士団が、最後の聖杯の儀式を執り行うと、聖槍によって傷は癒え、舞台は悠久の音楽ともに別次元の世界へと流れていく。音楽と空間の感覚が消え、静かに音程を下げながら消えていく崇高で厳粛な音楽を聞きながら、物音一つしない客席からは溜息さえも聞かれないくらいにスピリチュアルな雰囲気に包まれていった。
観客の熱狂的な拍手は何十分も続いただろうと思われる。聖金曜日の奇跡の夕方を、世界中で舞台を見入る私を含めた観客が、打たれたように過ごした。果てしなく続く感動の連続に、映画館で拍手をする人がいた。終わったのは夜の10時半を過ぎていた。春の風が、満足しきった観客の中を吹き抜けていった。
私は、自分がワーグナーの音楽に陶酔することはあっても、よもやハマることはないと思っていた。だが翌日、私はかねてから録音していたティーレマンのCDを朝の通勤電車で聞きたくなった。いつもとは違う朝のように感じられた。その瞬間、もしかしたら自分も感染してしまったのかも知れないと感じた。丁度、流感にかかったときのように、ほのかな感覚の変化が、私に芽生えつつあった。ワーグナー病の患者候補となったのかも、知れなかった。
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