まだまだ残暑が厳しいというのに、首都圏では「ワルキューレ」が数多く演奏されている。その中でも全曲の上演は、神奈川県民ホールで二日間に亘って開催される二期会、びわ湖ホールなどとの共同開催のものである。暑い中でワーグナーなど聞く気になれないと、私は最初から敬遠していたが、先週渋谷のタワーレコードへ出かけたところ、ヤノフスキの新録音が試聴コーナーにおかれていて、(このSACDはすこぶる高いが)なかなかの名演であると思った。そしてその第1幕冒頭のメロディーが頭から離れなくなってしまった。
台風が近づき大荒れの天気となりそうな一日だったが、Webで見ると当日券があるとのこと。いくらワーグナーの中でも上演回数の多い「ワルキューレ」とは言え、生の上演に接する機会など一生にそう何度もあることではない。日本人を主体に据えた布陣とは言え、我が国を代表する歌手が勢ぞろいということもあり、期待は膨らむ。そうなれば行くしかない。横浜までは我が家から1時間とかからない。13時のチケット売り場に並ぶため、11時過ぎには家を出た。
会場に着いて驚いたことは、みな服装がカジュアルだということである。一般にワーグナー好きはCDやチケットにお金がかかるので、着るものに金銭を回す余裕はない。ワーグナーと経済的困窮はセットである。それにしても、いつものオペラの華やいだ雰囲気がないのはちょっと味気ない。私は雨に濡れることを想定し、サンダル履きで会場へ着き、そこで革靴に履き替えた。蒸し暑いというに上着を着ていったが、そういう客はほとんどいない。
おまけに2階席脇のA席には、ちょっと困った客が多かったのには閉口した。上演中に(それも第2幕の終わりかけだ!)に着席する客、そうかと思えば第3幕の最後のシーンで席を立つ客。トドメは私のとなりで携帯電話を取り出してメールを見てる女性。この人達はワーグナーを聞こうとしているのだろうか。帰り際にアンケートで苦情を書こうかとも思ったが、そんな気力も消え失せた。1階のS席、あるいは3階の天井に近い席ならもっと熱心な客がいたと思う。けれども2階席は一部の客の質が良くなかった。
さて、演奏である。歌手の方々の出来栄えについて、私はそれを云々するほどの経験がないので、以下では率直な感想を書こうと思う。まずジークムント(テノールの望月哲也)とジークリンデ(ソプラノの橋爪ゆか)は、結構良かった。声は客席の隅々にまで到達し、とても充実した歌いぶり。ジークリンデのほうはやや声が大きく張り上げようとし過ぎにも思われたし、何せここ一番という気合である。だがそれを含めて、好感が持てるのは判官贔屓のせいだろうか。日本人の歌手でもいけるなあ、というのが第1幕の感想。ブラボーが飛び交う。
ところが第2幕に登場した二人の外国人、ブリュンヒルデ(ソプラノのエヴァ・ヨハンセン)とヴォータン(バリトンのグリア・グリムズレイ)は、その風格と大きな声量で、やはり違うなあというのが第1印象だった。有名なのはヨハンセンだが、私はむしろグリムズレイの声に聞き入った。長いヴォータンの語りのシーンを、映しだされる歌詞を追いながら、これほど見入ったことはなかった。もしかすると実演に接することの感激が、その出来栄えを客観的に捉えることを邪魔していたのかも知れない。このヴォータン、私が初めていいと思ったバリトンかも知れない。
フリッカ(メゾ・ソプラノの加納悦子)とフンディンク(バスの山下浩司)は、ともに少し小柄で損をしていると思う。だがフリッカはヴォータンを口論において打ち負かす役である。そしてそれは十分に果たせていた。フンディンクの、どこにいるのかわからないような感じは、この悪役としてはやや不足気味に思われたかも知れない。だがこれは私の思い込みでもある。悪役とは言ってもフンディンクはそれほど悪い男ではないだろう。むしろある日突然訪ねてきたジークムントに妻ジークリンデを奪われるのだから、可哀想である。それを聞き入れるのはフリッカで、至極まっとうな話なのに、なぜか悪ものに見えてくるのはワーグナーの仕業である。それほどにまでブリュンヒルデの描く愛の世界は、強調される。
ワーグナーの目指したのはドラマと歌の完全なる融合で、もはや「ワルキューレ」は番号オペラではなく、音楽が途切れなくずっと続く。にもかかわらずジェロル・ローウェルスの演出はこれでもかとばかりに幕を上げ下げし、その幕には時折舞台で語られるテーマをキャプションで映し出す。その是非はともかく、これは分かりやすさを求めた結果であろうし、そのことを悪く言う気はない。なぜならいくつかの場合においては、幕が降りることでむしろ音楽への集中が得られ、場面の主題の転換にメリハリがあったからだ。だがそれは時に行き過ぎるようにも思えた。
まだジークムントがフンディングの家にたどり着いてもいないにもかかわらず、3つものシーンを用意する必要はあっただろうか。それよりももっと残念だったのは、冒頭と同じシーンが最後の幕切れでも再現されたことだった。第3幕の最後の15分はもっとも感動的なシーンである。ローゲの放った炎がブリュンヒルデを包んで赤く燃え上がるシーンこそは、最大の見せどころである。だがそれを中断してしまったのだ。ここは音楽に身を任せていたい。すすり泣いていた観客も、これではちょっと興ざめだ。最初のシーンで使われたドライアイスの効果は、ここでこそ使ってほしかった。子役や歌わない歌手がやたら登場するのも、いかがなものか。
沼尻竜典の指揮は、この多忙なマエストロの充実ぶりを反映している。ことさら構えるわけではなく、かといって押さえるところは押さえ、音楽の流れを保つことに細心の注意が払われていた。金管楽器が音を外しそうになっても、自然に音楽は流れ続けた。木管楽器の上手さが目立ったオーケストラは、神奈川フィルハーモニー管弦楽団と日本センチュリー交響楽団の合同メンバーで構成されていた。
総合的に見て、客席と演出において、いくつかの集中力を欠く結果となった部分もないわけではないものの、 いい出来栄えであるように思えた。何せ、実演で見ることの出来た「ワルキューレ」はこの上なく新鮮で、あっというまの5時間であった。「騎行」のシーンでは派手さが全くと言っていいほどなく、むしろ音楽的な側面でこの部分を楽しめたことは良かった。だがノートゥンクを抜くシーンはあまりにそっけない。家の中にそびえているはずのトネリコの木が、倒されてベンチのように横たわっているのだから。やはり演出は中途半端だったと思う。左右に広い舞台は、これを活かしきれていない。それはそれでいいが、字幕のディスプレイと離れすぎていて視線を動かすのに苦労する。そして客席の階段脇に設けられた非常用ライトが、観客の姿勢の変化によって見えたり見えなかったりするのも、ワーグナーのオペラを見る上では集中力を欠く結果となったことを付け加えておこうと思う。
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