今年の夏はモーツァルトのオペラに明け暮れた。携帯音楽プレーヤーに入れたダ・ポンテ三部作「フィガロの結婚」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」だけでなく、「イドメネオ」、「後宮からの逃走」、「魔笛」などを立て続けに毎日聞いた。中でも「フィガロ」は全部で5種類の全曲盤を何度も聞き返し、その豊穣なメロディーの洪水をこれでもか、これでもかと聞いた。関西へ向かう新幹線の中で聞く快速の「ドン・ジョヴァンニ」ほどふさわしいものはない。時間もちょうどいい。そして、最後を飾るのが「皇帝ティートの慈悲」だった。
アーノンクールの録音で初めて聞く「ティート」は、ストーリーも知らないで聞いてみたが、なかなかいいなと思った。死の2ヶ月前、「魔笛」と並行して作曲されたモーツァルト最後のオペラである。だがその人気は「魔笛」と比べると遥かに低い。確かに「フィガロ」のような溌溂としたところがないとしても、ここには晩年のモーツァルトが書いた充実の音楽があるはずである。そしてよく考えて見れば、モーツァルトのオペラは(全部で22作品もあるが)、オペラ・セリアに始まりオペラ・セリアに終わる。
久しぶりの東劇で、昨シーズンの上演のうちまだ見ていないものを中心に、アンコール上演で見る、というのがここ数年の私の夏の過ごし方である。その最初が昨年12月に上演された「ティート」で、表題役ティートにテノールのジュゼッペ・フィリアノーティ、その友人セストにメゾ・ソプラノのエリーナ・ガランチャ、そして前皇帝の娘ヴィッテリアにソプラノのバルバラ・フリットリという布陣、指揮はバロック・オペラでメトの常連ハリー・ビケットの古楽器風奏法が響き渡る。演出は、今では古典となった感のあるジャン=ピエール・ポネルというから豪華である。
序曲が始まると、これはやはりモーツァルトだなと思う。「あの」モーツァルトのオペラが悪かろうはずがない。 このような作品を聞かずにいたことが残念でならない。それほど素敵なオペラだった。
このオペラの主人公は、表面的にはもちろんティートだが、実はそうではない。それはセストである。複雑なあらずじも、少し見方を変えて書くとわかりやすい。セストは、ティートの親友で、セルヴィリアという妹がいた。さて、ここからがややこしい。セストもセルヴィリアも、その恋人アンニオも女声である。ここで、セルヴィリアのみが女性、ほかは男性、つまり「ズボン役」。さらに、ティートと結婚し王妃となることを密かに企む前皇帝の娘ヴィッテリアも女声。ここでは4人もの女声が活躍する。しかしこれが不思議と気にならないくらいに音楽が美しい。そして聴かせどころを踏まえて物語が進行する抜群の企画力は、・・・これはもうモーツァルトだからこそできる天才的なものと言えるだろう。
さてここで台本についても触れないわけにはいかないのは、これがオペラ・セリアだからであってその作家メタスタジオは、この時期に一世を風靡したオペラ・セリアの大御所であった。彼の台本によって同じ物語に違う作曲家がオペラを書いている。この「ティート」もそうだが、そのメタスタジオのオペラをモーツァルトは子供の時から作曲している。「魔笛」を作曲するモーツァルトは、もやは疲れ果て、寒さに打ち震えながら死の陰に怯えていた。そのようなときに、モーツァルトにはまたひとつのオペラ、しかも十年ぶりかのセリアである。だがかつては「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」で作曲家を持て囃したプラハも、「ティート」では失敗に終わる。ウィーンでの人気も凋落し、モーツァルトは「レクイエム」を完成させることなくこの世を去る。1791年12月5日のとであった。
レチタティーヴォでつながるアリアはどれも素晴らしいが、特に第1幕のセストが歌う「私は行く」は、クラリネットの伴奏がとても印象的で、一番の聞きどころである。ところが、ここのところの猛暑と、多忙極まりない仕事のせいで、17時半にオフィスを飛び出した私は、急にサンドイッチなどを頬張ってお腹がいっぱいになったからか、瞬く間に睡魔に襲われたのだった。映画館には十数名しかおらず、私のまわりにも誰もいない。おそらくいびきをかいて私は寝てしまった。
気がつくと第1幕はほとんどが終わっていた。第1幕の終盤の、ローマが炎につつまれるシーンも、あまり印象的な演出とは言えず拍子抜け。音楽が素晴らしいのに、楽しめていない自分が大変残念でならなかった。
インターミッションの間に気を取り直す。そしてセストを歌ったガランチャのインタビューは、スーザン・グラハムの機知に富んだやりとりによって、大変興味深かった。ガランチャのこの上演での素晴らしさは、続く第2幕で存分に発揮された。だが、第2幕のクライマックスは、自分の犯した企てがセストを死刑に追いやることを反省し、改心するヴィッテリアのシーンである。このアリアではバス・クラリネットが活躍し、その音楽的なやりとりはブッファの作品、あるいはシングシュピールの魅力ともまた異なる側面を持っている。このアリアの前に歌われるティートのアリア「皇帝の主権にとって」や、さらにその前のアンニアのアリアなど、聞き所は多く、しかもストーリーはなかなかドラマチックでさえある。
ビケットはヴィッテリアの長いアリアが終わると、会場の盛大な拍手を無視して音楽を続けた。ここから一気に最後のシーンに雪崩れ込むからだ。幕の中の幕が開き、並んだ合唱団とともに盛大なフィナーレが始まる。モーツァルトのオペラの完成度は非常に高い。全員がティートの慈悲を讃えて、セストは開放される。考えてみれば、このような爽快な終わり方のオペラを見たのは久しぶりである。後年のメロドラマのようなオペラにはない魅力が、オペラ・セリアという古びた形式の中に発見できるのは、やや逆説的であろう。だが観客の拍手の熱狂さを見ていると、もしかしたら現代の都会人が求めている、純粋な心の気持ちのようなものが、この中に息づいていることを喜んでいるのではないかと思った。
何事にも形式が優先した18世紀に作られた、モーツァルトのオペラ・セリアは現代でも十分に刺激的である。 それもこれも、「あの」モーツァルトだから、ということなのだろうけれど。
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