2013年9月22日日曜日

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(The Met Live in HD 2007-2008)

オペラ史上最高傑作とされるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は、私にとっても最大の関門であった。初めて前奏曲と「愛の死」を聞いた10代の後半から現在に至るまで、聞く機会は作ろうと思えばいくらでもあった。数多くの歴史的名演がCDやDVDとして売られているからだ。ただ、私は古いフルトヴェングラーやベームの演奏の世代ではない。むしろその次の世代である。大学生の時に、丁度カルロス・クライバーとレナード・バーンスタインの録音が相次いでリリースされた。映像ではダニエル・バレンボイムのバイロイト・ライブが評判の頃である。

私もクライバーとバーンスタインによる演奏を少し聞いた。だが、その音楽は今思い返しても、さほど私の心を捉えなかった。結構鳴る曲だなあとは思ったが、何せ他のワーグナーの作品とも違い、メロディーが親しみやすくはなく、バレエや合唱が派手に入るわけでもない。ストーリーは「指環」ほど難解ではないものの、かえってそのことがこの作品をわかりにくくさせていた。あまり現実的な物が登場しないのである。

この経験が私にとっての「トリスタン」の敷居を高くしてしまった。あまりに評論家や愛好家が絶賛するものだから、自分がそれに親しめないことに対する何か劣等感のようなものをも生じさせもした。後になって「リング」や「パルジファル」にさえ感動したにもかかわらずである。それは音楽的には、あの冒頭の半音階で成り立つ動機そのものへの違和感といっても良かったと思う。

ベートーヴェンが「エロイカ」交響曲の冒頭の和音を高らかに鳴り響かせた時から、世界の音楽史は変わったという言い方があるが、そのわずか50年後になってワーグナーは、「トリスタン」の前奏曲で、同じ程度に革新的な方向を踏み出すこととなったと言って良い。

だがこのことは後年になっての体系化であり評価である。私たちはその後、マーラーやシェーンベルクを経て、数々の現代音楽、あるいは映画音楽の類を知っている。そこではあらゆる音楽・・・それはもはや和声が崩壊し無秩序化した、あるいはその後に再度秩序だてられもした・・・すなわち20世紀を通り抜けたところにいて、そこからこのような音楽の起源が、どこで培われたかを考察するのである。その起源が、「トリスタン」の前奏曲ということになっている(このトリスタン和音は、この楽劇全体を支配するモチーフでもある)。

私がこれまで違和感を覚えていた「トリスタン」のとっつきにくさは、この革新性にあったと思う。そしてそれを克服することは、一体いつになったらできるのだろうと長い間「考えて」いた。ちょっとCDを買うか借りるかして聞けばいいのだが、ここで「聞く」とは何度も繰り返し格闘するかの如く聞くことを意味せざるを得ず、私はその時間的ゆとりを持つことができないでいた。もちろん準備はしてきた。ワーグナーの他の作品、ヴェルディやシュトラウスのオペラを見聞きし、オペラ史を俯瞰する本を読んだのも、さらにはより現代的な音楽を聞いたのも、突き詰めれば「トリスタン」を聞くためであったとさえ言える。ここを経ずして、ロマン派以降の音楽を語ることは出来ないのだから。

バレンボイムの映像もダビングしていたし、今回MET Liveで見たレヴァインの映像も、2008年にNHKで放送されたのをHDDに入れてあった。だが、これを見ることはなかった。集中して、体調を整えて、準備万端整ったところで見なければ意味が無いと思ってきた。そしてとうとうその時が来た。映画上映のアンコールで、5時間以上に及ぶこの2008年の上演を見る機会に恵まれたからだ。しかもこれまでにリングのサイクルも、「パルジファル」も、「タンホイザー」や「ワルキューレ」の実演も経験したし、ワーグナーの映画も見た。本も読んで、音楽の基礎を学習し、ヴェーゼンドンク夫人とのいきさつについても「予習」した。あとは時間を作って聞くだけ・・・その日がとうとう来た。

この作品を聞く側の状況は、2種類しかないという。感動に打ち震えながら聞くか、眠り倒すか。そして演奏自体も超名演になるためのハードルがかなり高い(そのことは、インタビューでレヴァイン自身が語っている)という。しかし結論から先に言えば、私はこの日の上映に接して、そのどちらでもなかった。確かに睡魔が襲った時はあったが、それは短い時間だったし、むしろ5時間という長大な時間がさほど長くは感じられなかった。恐れていたほど難解ではなく、映像も綺麗だった。

だが、感動的だったかと問われると、これはもう残念なががらそうではなかったと告白せざるを得ない。第3幕では、トリスタンを歌ったロバート・ディーン・スミスが、前幕までとは比較にならないほど良くなって、この長大な歌唱を知ることとなったし、イゾルデのデボラ・ヴォイトの「愛の死」は感動的だった。だが、不思議とそれ以外のことが胸に迫らない。これは何故なのか。

原因は自分にあると思っていたが、ここでは開き直ってみようと思う。演奏が私を感動させなかったのだと。もしかするとトリスタンもイゾルデも、最高潮というわけではなかった。もとよりワーグナー歌手として、悪くはないが絶対的に良くもないレベル・・・さらにはレヴァインの指揮も自己ベストではない。ビルギット・ニスソンだの、 キルステン・フラグスタートだのを引き合いにするまでもなく、ティーレマンの最新CDを聞くだけでもそのことは明白だ。さらに、ブランゲーネを歌ったミケーレ・デ・ヤングは、悪い歌手ではないと思うが、声がやや高くてイゾルデと違わなさすぎる。トリスタンの第1幕は結構平凡で、むしろクルヴェナールを歌ったアイケ・ウィルム・シュルテの方がワーグナー歌手としての風格に満ちていた。そしてマルケ王のマッティ・サルミネンもしかりである。

録音もライブ収録ということもあるのか、ちょっと不足気味に感じられた。もしかするとそれは、マルチ・スクリーンを多用したビデオ演出のせいかも知れない。私はこのような新鮮な試みは好きな方だが、これがあまりに多用されていたことで、集中力が途切れてしまう結果になったようだ。2008年といえばMET Liveも始まったばかりでいろいろな試みがあったのだろう。これをライブで切り替えるというのも大したものだが、ビデオ演出家にどこを見るべきかを任せておいたほうが、音楽に集中できるという気がするのは私だけだろうか。

第2幕でマルケ王が登場するシーンでは、中央に大きな柱が登場してせり上がり、さらに真ん中が開いて黄色い部屋のなかからマルケ王が登場した。巨大な帆を背後にした第1幕の青を基調としたシーンも大変美しく、 第3幕ではイゾルデの赤い衣装が印象的であった。全体にディーター・ドルンによる演出に不満はない。

この上演に接したことにより、「トリスタン」の最初の関門は突破したように思う。だが、その先に次の関門が見えてきたようだ。まずは手元にあるティーレマンとベームの演奏をCDで聞いて、再度どこかでチャレンジする、というのが次の目標となった。

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