2015年5月17日日曜日

マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団他)

マーラーは「復活」を6年もの歳月をかけて作曲した。その苦心を反映するかのうようにこの交響曲は、それまでの他の交響曲作品とは比較できないくらいに大規模なものだ。5楽章構成であることに加え2人の独唱や合唱団、それに舞台裏に配置されたバンダまでもが登場する。後半の3つの楽章は続けて演奏され、ここだけで50分、曲を最初から最後まで続けて聞くと80分ほどかかる。つまりベートーヴェンの第九を超える演奏規模と言うことになる。

かつて私の家にも「復活」のLPレコードがあり(ズビン・メータ指揮のウィーン・フィルだった)、単独で2枚組の交響曲というのが何とも驚くべきものに思われた。録音も秀逸なこのレコードの第1楽章の冒頭を私は友人と何度も聞き、家が震えるのではないかと言うような大音量で鳴らしたのを思い出す。その丸で火山が爆発するようなフォルティッシモを聞くだけで私は満足し針を外すのだったが、後年この曲を聞くとそのような盛り上がりが第1楽章にももう一回、そして長い第5楽章には何度も登場する。それだけでなく震えるくらいにメロディーが奇麗な第2楽章、旋律が忘れられないほど印象的な第3楽章、さらにはハッとさせられるような啓示に満ちた第4楽章など聞きどころが満載である。

マーラーはしかし、この曲を順調に書き進めたわけではない。特に第5楽章の作曲にまつわるエピソードは有名だ。ハンブルクの教会で尊敬する指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀に出席したマーラーは、オルガンと合唱による詩人クロプシュトックの「復活」の中の「汝、よみがえらん」を聴いた時、作曲中の交響曲の終楽章に使用することを思いついたというくだりである。「それはまるで稲妻のようにわたくしの身体を貫きました。そしてすべてが、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はこのような『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」

私がこの曲の全体を初めて知ったのは、エジンバラ音楽祭でレナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮したビデオ映像を見た時だった。教会でのライブ映像は、マーラーにひとかたならぬ情熱を注いだこのユダヤ系指揮者が、まるでマーラーの生き写しではないかとさえ思われたのだ。特に終楽章での圧倒的な感銘は、音楽というものの概念について再考を迫るほどの気迫に満ちている。「私は生きるために死ぬのだ」と歌われる時、カメラは何度も教会の天井を写しだす。天からの稲妻が、教会にいたマーラーに降り注いだように。

何と言っても圧倒的な作品であるこの交響曲は、私がまた最も愛するマーラーの作品でもある。そしてそのように感じている人も多い。指揮者のサイモン・ラトルはこの曲が自分の指揮者人生を決定づけたと言っているのを読んだことがある。彼自身、バーミンガム市交響楽団とベルリン・フィルを指揮して2度も録音している。有名は実業家ギルバート・キャプラン氏が、この曲だけを指揮するアマチュア指揮者として有名であり、私費を投じてロンドン交響楽団を指揮した演奏を録音し、その評価がもとでとうとうウィーン・フィルの指揮台にも立った(ドイツ・グラモフォンからリリースされている)。ここで彼は自らの改訂稿を用い、それが今では一般的なものになっている。言うまでもなくウィーン・フィルというのはマーラー自身が指揮を務めたオーケストラである。

私は「復活」の第2楽章が好きで、新しいCDを入手するとここの演奏をまず聞くのが慣例だが、なかなかいい演奏には出会えない。バーンスタインの演奏など遅すぎて、しかもあまり楽しくない。それに対して小澤征爾のボストン盤は純粋で古典派のセレナーデのようだが、現在私の最も好きな演奏である。第4楽章の「原光」は、ナタリー・シュトゥッツマンの独唱で聞いた時、アルトの歌声の響きがまるで暗闇に差す一条の光にそっくりだと思った。

人間は大きな苦悩に閉ざされている!
私は天国にいたいと思う! 
神はきっと一筋の光を私に授けなさり、
永遠の喜びの生命の中で私を照らしてくださるにちがいない。

一方第1楽章はもともと「葬礼」と呼ばれた。第1交響曲「巨人」で朝に向かって歩き出した若者は、早くも挫折し死に絶える。第2楽章で過去を回想するものの第3楽章で夢から覚め、第4楽章で信仰に目覚めた彼は第5楽章で神の啓示を受ける。魂がよみがえるのだ。「復活」とは死者の復活であり、キリスト教で言うところの復活(Resurrection)である。

生まれ出たものは、必ず滅びる。
滅びたものは、必ずよみがえる!
私は生きるために死のう!

この曲の録音には数多くのものが存在するが、今のところ私にとって何度か聞いた実演を上回ったものはない。少々技術的に平凡な演奏でも実演に勝るものはないとさえ思う。圧倒的な音楽の前に、言葉を失うのだろう(特に第5楽章のホルンが聞こえてくるところなど)。だからこの文章を書くに際していくつかの演奏を聞きなおしたが、部分的にいいとは思えてもそれが記録された、再現可能なものであるという事実そのものが私を冷静にさせ、白けさせてしまう。消え去ってもう二度と再現されない音楽とともに過ごす長大な時間。その中にこそこの曲の真髄があるように思えてならない。マーラーの想定した時間経過をそのまま演奏者とともに過ごす一期一会の瞬間を伴ってこそ、胸に迫るものがあるように思う。

だからCDでは、先に取り上げたアバドや、上記で触れた演奏とは異なる、もう少し客観的な演奏も聞いておきたいと思う。まだ作曲者が生きていた時代に活躍をしていたオットー・クレンペラーは、生涯に幾度となくこの曲を取り上げており、そのうちのいくつかはいまだに録音がリリースされているが、その中でもヒルデ・レッスル=マイダンがメゾ・ソプラノを、エリザベート・シュワルツコップがソプラノを歌ったEMIのステレオ録音に登場してもらうことにしようと思う。冷徹ななかにも情熱が宿っているような演奏。音の広がりと曖昧にしないアクセントはこの指揮者の特徴だ。ただ残念なのは第4楽章である。ここだけはメータの演奏(独唱はクリスタ・ルートヴィヒ)が断然いい。まだマーラーの演奏がポピュラーではなかった時代、1961年の録音。フィルハーモニア管弦楽団、そして合唱団。

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