2015年5月18日月曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(P:マウリッツィオ・ポリーニ、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は内省的な作品である。ここで「内省」というのは自己を省みることだが、演奏者がそうしているとか、作曲家がそのような気持ちで作曲したかどうかまではわからない。私が言うのは聞き手このこと、それも自分についてである。私はこの曲を聞く時、とりわけ第2楽章で、次の第5番協奏曲「皇帝」の時とは明らかに違う気持になるのだ。

自分自身の心のどこか片隅にあるような感情を覗かれるような気持ち、孤独で苦しかった頃の思い出を振り返る時のような、ちょっと時間が止まったような気分。こういうことは音楽を聞く場合よくあることだが、この曲はまさにそのような作用をもたらす作品である。深く沈んだ止まりそうな弱音が、ピアノで静かに弾かれる時に、心をギュッと掴まれたような作用を受ける自分というものがそこに存在している。他の人はどうなのだろうか。そしてそれを音楽的に証明することはできるのだろうか。

私は全く専門家ではないから、コードの進行がどのような気分を聞き手に喚起するかというような、作曲上のテクニック(それはポピュラー音楽で顕著である)についてはよくわからない。またそれが明確な形で定義されているわけでもないだろう。だが西洋の音楽が長い歴史を経て培ってきたこのような音楽上の特性と聞き手の心情の間に、経験的法則に基づく、あるいは明文化されていない関係が存在する。ベートーヴェン自身がその意図をもっていたか、あるいはそのいうな感情を持ちながら作曲したか、それは不明であり、また演奏家がそのことを理解して再現しようとしているか、となるとそれもまた明確には言えない。

おそらく音楽の面白さはそのような曖昧な部分にあるのではないかと思う。どのような感情が喚起され、どのような感覚を抱いて聞くかは、最終的には聞き手に任される。聞き手は何をどう想像しようと自由である。

第2楽章までの陰影に富んだ旋律が、時に息苦しく目まいにも似た感覚を抱かせる。 だがそれもいつしか終わって静かに、かつ確信を持って始まる第3楽章の出だしに、どこか新しい世界へと踏み込むような新鮮な気分にさせられる。不安な中にも着実な足取りで歩みを進める気分は、私の場合若い日の思い出に重なっている。

前にも書いたように思うが、ポリーニがザルツブルク音楽祭でアバド指揮ウィーン・フィルと共演した録音をFM放送で聞いた20歳の頃の年明けに、私は友人たちと飲み明かし、気がついていたら家のベッドで寝ていた。まだ酔いが残る冬の朝、私の心に年末に聞いたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第3楽章が鳴り響いた。どういうわけかこの時の音楽が私の心から離れない。あの演奏をもう一度聞いてみたいと思う。だが放送録音は再びオンエアされることはない。私はポリーニというピアニストの弾くベートーヴェンに特に興味を持ってはいなかったが、どういうわけかこの時の演奏は素晴らしかったと思う。

後年になってアバドがベルリン・フィルの音楽監督に就任し、ポリーニをソリストに迎えてベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を一気に録音した。発売されると同時に私はこれを買い求め、今でも手元に置いてある。ここで聞く第4番もその演奏である。だがどうしてもあの時の、ウィーン・フィルとの演奏とは違うような気がする。1987年のザルツブルクの演奏は、もっとよかったのではないか・・・。

実は検索をしてみると、この時の録音が非正規でリリースされているようだ。 けれども録音状態はわからないし、それに音楽というのはやはり1回限りのものだとも思う。ライブ収録された放送だったとしても、それを何度も聞くことができないという良さもまた音楽の大切な側面だ。あの時のポリーニは確かに良かったねえ、でも後年のベルリンで入れた録音は少し物足りないねえ、などと語っているのがいいのかも知れない。少しは通のような気分になれるし、それにいつまでもその時の気分に浸ることができる。二度と経験できない過去を振り返る時の、若干の悔しくもどかしい気分とともに。それはあたかも苦い初恋の思い出のように・・・。

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